茶々姫をたどる汐路にて -4ページ目

茶々姫をたどる汐路にて

茶々姫研究の関連日記、茶々姫サイト『萩の御前』(http://chachahime.hanagasumi.net/)の更新情報など。


久々に千姫とか。 pic.twitter.com/AUuzQpMemO



posted at 18:00:17


あとは廉貞院のお墓参りとか。


posted at 17:57:15


やっぱり普通に考えて長政と同世代なはずの海津局の世代がおかしいよねぇ


posted at 17:40:21


その霊前におよそ150年後に渡部小ぜん(貝偏に蟾のつくり)なる人物が打敷を奉納した。


posted at 17:16:56


重用された。この打敷には、墨書があり、三好政盛(崇徳院)の供養のため奉納されたものであることが記されている。生前の三好政盛が高台寺と関わり、高台寺では政盛が亡くなった後にその供養を行ったことを示す貴重な品物がこの打敷である。三好政盛は、元禄12(1699)に亡くなっており、


posted at 17:15:10


紺地牡丹唐草文様銀襴打敷(こんじぼたんからくさもんようぎんらんうちしき)弘化3年(1846)大坂城落城の際に、千姫に従って海津局(淀の方の侍女)は、浅井家の血を伝える幼い子を連れて脱出した。海津局の子は「浅井」から 「三好」へ名字を変えて後に江戸幕府へ出仕し、孫の三好政盛も幕府で


posted at 17:11:57


緋羅紗履 高台院につかえた溝口兵衛門正則の祖母普松院照窓貞壽(箱書より)が「太閤秀吉公所親之赤履」として頂戴したものを正則が高台寺に寄付したもの


posted at 17:06:25


豊臣秀吉和歌十首、黒田長成筆より


posted at 17:00:42


よのなかよはかなきことをきこしめして仏のみちにさへうとからぬ御心ありけるに つゆとちりしつくときゆるよのなかに なにとのこれるこころなるら舞


posted at 16:59:18


長門国文司の関にて安徳天皇の御影を御覧して はなちりしあとをあはれとこととへば そでもむかしにかへるなみかな


posted at 16:57:38


掌美術館なう。


posted at 16:52:17

個人蔵大坂夏の陣図(江戸時代後期)。「元和元年四月上旬従右府大蔵卿局二位局中原常永青木民部女ヲ御使トシテ、、」「毛利豊前□□主馬津川左近渡邊内蔵介母正永成田兵蔵於城中ニ切腹 同八日秀頼公並御母堂御生害大野修理亮速水甲斐守真田大助以外歴々廿五人切腹ス」


posted at 15:53:34


長浜城。養源院本「淀殿」像、秀頼像がきてた。


posted at 15:35:35


大阪城天守閣蔵豊臣秀頼側近某書状 青民少(青木一重)宛 年表より…(慶長十二年閏四月二十八日付信門宛織部書状)慶長十二年古田織部が大坂城で、織田有楽とともに秀頼に献茶したらしい。この年は秀頼数え十五才(秀吉の遺言によると秀頼成人の年)だけど、なにか関係あるのかな?


posted at 12:44:05


織部百ヶ条(古田織部自筆大野修理大夫治長宛、17世紀初頭)…織部が書写し、弟子に伝授した茶の湯式法書。当時は書名がなかったが、いつしか「織部百ヶ条」の名称が付いた。本書は3月2日つで、宛名の表面が丁寧に削り落とされているが、「大修理殿」と読め、秀頼側近・大野修理大夫治長宛である。


posted at 12:22:00


オーストリアエッゲンベルグ城蔵豊臣期大坂図屏風複製、蒲生とら宛豊臣秀吉書状、大阪城天守閣蔵豊臣秀吉朱印状伏屋十内・瀧川彦次郎・大野弥八郎宛(天正十八年七月二十八日付)


posted at 12:19:21


佐川美術館なう


posted at 11:51:16