諸家譜を読んでいて思うこと。関ヶ原合戦は共通して「三成に任せておいたら秀頼様にためにならない!」という理由で動いたとされているのに、一方で大坂の陣に至るまでの経緯が驚くほど省略されているものをいくつか見かけます。正当化できなかったのか、後ろめたさが多少なりともあったのか…はてさて
posted at 21:57:45
大坂の陣の発端となったことで有名な方広寺の鐘銘について、「方広寺鐘銘並五山衆評判」を読んでいたのですが、あまりにもあまりで閉口せざるをえませんでした。秀頼の名前の前に家康の名前をいれるべき!とかびっくりしました。
posted at 21:54:38
織田信益(母が信長の姉妹綱)はもともと秀信に従っていたところ、慶長合戦で岐阜が落城したのちに茶々を頼り、その伝手で江を頼ったそうです(『織田家譜要記』)当時の茶々・江姉妹の繋がりが見えてちょっと面白いです。
posted at 21:46:32
@Ka_Yuu_K この間たまたまこの方を調べていたのですが、筒井氏側の記録に見える「雲上良清大姉」のほうは没年が元和二年なのだそうです。一方「法蓮日栄尼」は中川家によるらしいのですが没年寛永九年でがあわないらしく、混同がみられるそうです。どうなんでしょうね…
posted at 21:20:25