ジキです。

 

前々回の「自由のための民主政」というタイトルで、

自由の捉え方が間違っていたという話をしました。

 

 

ですが、

正直言って腑に落ちていないんですよね。

本当の自由とは何でしょうか。
平たく言うと、
「理性に基づいて行為できる状態」のことです。
この結論ですが、
どうやって導いたかというと、
次のような前提によってです。
カントやデカルトが定義する人間とは、
理性を持っている「理性的存在者」であるということです。
それが動物と人間を分ける基準です。
ですが、
アニマルセラピーという言葉があるように、
動物にも本能だけでなく、
状況を判断して行動しているようにも見える場面があります。
だから、
理性が人間だけにあるという前提は難しいように思います。
 
ですから、
人間に理性がある。
だから、
本能に従って行動するのは人間ではない。
ある場面で本能に従う行動しか選択できないのは不自由である。
だから、
自由とは理性に従って行動できる状態のことである。
 
という論理は暴力的のようにも思えます。
また、
ある状況に於いて、
理性に従う行動しか選択できなければ、
それこそ不自由だと思います。
実際、
『大人の道徳』では、
「道徳的義務に服従する」のが自由であるという
主旨のことが書かれています。
 
ジキの理解ですと、
義務は自由ではないと思うのです。
まず、義務とは何かを調べてみます。
  1. 人がそれぞれの立場に応じて当然しなければならない務め。「―を果たす」⇔権利。
  2. 倫理学で、人が道徳上、普遍的・必然的になすべきこと。
  3. 法律によって人に課せられる拘束。法的義務はつねに権利に対応して存在する。「納税の―」⇔権利。

(デジタル大辞泉)

2番目にあるように、
「必然的になすべきこと」ですから、
選択の余地がありません。
 
さて、
上記の議論は「自分勝手は自由か?」という問いに対して、
自由ではない、
そのような自由は制限されるべきである、
という結論を導くことを目的にしているように思えます。
 
ジキも自分勝手な行動は許されないと考えます。
そして、
その結論を導くにはもっと丁寧な議論が必要だと思います。
 
そこで、
今回はもうちょっと丁寧に「自由とは何か」について議論して、
「自分勝手は自由か?」の問いの答えを求めたいと思います。
ただ、
ジキは哲学をまともに勉強したこともないし、
ちょっとかじっただけですので、
厳密な議論はできません。
というより、
色々と調べて様々な考えを読んだ結果、
ジキは「自由」をこのように理解した、
という感じで議論していきます。
 
前置きが長くなりましたが、
まず言葉の定義と前提からいきます。

 

  定義

 

理性

物事を正しく判断する力。また、真と偽、善と悪を識別する能力。美と醜を識別する働きさえも理性に帰せられることがある。

(世界大百科事典)

ジキは理性を道徳的価値観に基づいて判断することだと勘違いしていました。

上の定義で言うと、

必ずしも道徳的とは言えないことが分かります。

何故なら持っている知識が間違っているとき、

本人が正しく判断したと思っている結果も間違っているからです。

ですから、

物事を正しく判断した結果が間違っていることも含めて

「理性」であるとして、

ここではこの言葉を使います。

 

  前提

 

人間

一部の動物と同様、本能と理性を持っており、状況に応じてどちらに従うかを選択できる。

動物と人間を分けるのは抽象概念を扱ってより高度な概念を形成できるところにある。

(ジキ)

日本人だとこう考えることにあまり抵抗はないのではないでしょうか。

動物と人間を分けるのは、

抽象概念を扱って推論できることのような気がします。

動物が数の概念を扱えたとしても、

そこから虚数や無限を思いつくことは難しいですよね。

 

  積極的自由

デカルトカントが主張した自由は、

道徳的価値観に基づいた判断で行為する自由でした。

本能に従う行為しか選択できない状態を不自由としました。

 

しかし、

前置きでも述べたように、

ジキは道徳的な判断しかできない状態も不自由だと思っています。

 

バーリンは、

このような道徳的価値観に基づいた行為を行う自由を

「積極的自由」と呼びました。

 

ただ、

このような自由しか認められない社会というのは、

全員が道徳的な行動を取りますから、

理想的な社会であると言えます。

 
ある意味、
武士の社会にも見えますが、
「正しい判断を行い、実行すること」が「自由」であると言われると、
そこに武士道を見いだせない自分がいます。
それは自由でも義務でもない、
「生き方」や「心構え」だと思うのです。
要するに、
「正しく生きること」は、
生まれた時に持っているものでも、
誰かや倫理によって強制されるものでもない、
と思うのですよね。
寧ろ、
我欲との闘いの中で葛藤しながら、
やろうと決意することのような気がします。
そこに自由と何の違いがあるのかと言われると、
説明するのが難しいですが、
このように違和感を抱いてしまうのは、
根本的に西洋哲学と東洋思想が異なるからなんでしょうか?

 

それはともかく閑話休題。

もし積極的自由が道徳的義務に基づいて行動する自由であるならば、

義務である以上、

選択の余地がありませんから自由ではないと考えます。

仮に権力者が何が道徳的か明確にして義務付ければ、

それが全て間違いなく道徳的であったとしても、

その結果、全体主義の社会になり得る危険性も孕んでいます。

 

  消極的自由

積極的自由に対して、

バーリンは消極的自由という言葉を使いました。

消極的自由とは、

本能に従って行動できる自由です。

制限を受けないで行為できる自由です。

 

ここで「本能に従って」の意味を書いておく必要があると思います。

ここでの意味では、

昆虫のような

知覚と反応が直接つながっている反射的な行為ではなくて、

本能から私欲がわいてきて「~がしたい。」と思う心に従う行為であるとします。

ですから、

「私欲・我欲に従って」と同義であるとします。

 

ところで、

積極的自由のことを「~への自由」と言われます。

消極的自由のことを「~からの自由」と言われます。

 

消極的自由を認めると、

積極的自由のみの社会と比較して、

現実的な社会であると言えます。

ジキもできればそういう社会に住みたいと思います。

 

ロックシンガーが求めていたのは、

積極的自由ではなく消極的自由であったということですよね。

 

デカルトは、

消極的自由に縛れている人間を「奴隷」と呼びましたが、

寧ろ消極的自由を制限されている人間を「奴隷」と呼んだ方が、

ジキはしっくりします。

 

さて、

消極的自由を認めると問題が起こります。

なぜなら「自分勝手」が消極的自由に含まれる可能性が出てくるからです。

 

実際、

際限ない自由主義が日本に取り入れられて、

モラルが低下し功利主義を生み、

現代の日本は没落に向かっています。

 

ですから、

このような事態を避けるためには、

自分勝手のような消極的自由を制限する

必要が出てくると思われます。

 

  自由をいつ考える?

さて、

この世界に自分一人しか存在しなければ、

だれも自分に制限を加える者がいませんので、

何が自由であるかとか、

自由とは何かとか、

どうすれば自由になるか、

などの議論は必要ないはずです。

 

ですから、

自由が議論されるのは相手がいる時です。

 

『デジタル大辞泉』で「自由」とは次のように書かれています。

  1. 自分の意のままに振る舞うことができること。
    また、そのさま。「―な時間をもつ」「車を―にあやつる」「―の身」
     
  2. 勝手気ままなこと。
    わがまま。
     
  3. 《freedom》哲学で、
    消極的には他から強制・拘束・妨害などを受けないことをいい、
    積極的には自主的、主体的に自己自身の本性に従うことをいう。
    つまり、「…からの自由」と「…への自由」をさす。
     
  4. 法律の範囲内で許容される随意の行為。

このうち、

3番目の「他から強制・拘束・妨害を受けないこと」に注目します。

 

消極的自由を認めると、

他者の自由を「強制・拘束・妨害」することが起こる可能性が出てきます。

そして、

権力者がするように意図的に妨害することもあれば、

それを意図しなくても自分の行為の結果、

誰かの自由を妨害することもあります。

 

例えば、

2人の前に本が1つしかなく、

2人とも本が読みたいとき、

どちらかがその本を独占する自由を行使すれば、

もう一人のその本を読む自由を妨害します。

 

こういう場合に、

何が自由であるのか、

もしくは、

どの自由が制限されるべきなのか、

という議論が必要となってくるのだと思います。

 

Wikipedia「自由」の「近現代における自由」の節では、

次のように書かれています。

自由はまた他者の自由とも衝突する。他者の自由を尊重せず勝手な振る舞いをしてはならない、という考え方は、J.S.ミル『自由論』の中で表明され、今日他者危害の原則として広く支持されている自由観である。

この考えに従えば、

相手の自由を尊重しない身勝手な行為は

制限されてしかるべきであると言えます。

 

ということは、

消極的自由とは、

相手の自由を尊重した上で、
私欲・我欲に従って行為することができる状態

といってよさそうです。

 

  行為しない自由

これまでは、

行為することを前提に議論してきましたが、

行為しない自由もあります。

 
例えば、
「働きたくない自由」などです。
 
これを考え始めると議論が散漫になってくるので、
例えば、
「嘘をつく」という行為を選択しない自由を
「嘘をつかない」という行為を選択する自由と言い換えることで、
「行為をしない」自由については議論しないことにします。

 

  何が自由かを定義することは難しい

さて、

『世界百科事典』の「自由」には次のように書かれています。

西欧社会における自由の概念

自由という言葉はきわめて多義的に用いられており,定義することは困難であるが,一般的にいえば,あるものが他のあるものによって拘束や制限を受けることがなく,その性質にしたがって活動をなしうる状態を指すといえよう。これらの諸自由のうち,とりわけ問題になるのは人間における自由である。人間は環境に適応するとともにそれを変革していく動物であるとすれば,人間と環境との相互関係はたえず変化するものであり,したがって,いかなる行為ないし行為しないことがどの程度において自由であるのかは,時代と社会と個々人とによって異なるのであって,自由の概念をその内容によって一義的に定義することはできない。さらにいえば,人間と環境との相互関係においては,人間は自由であると同時に自由ではありえないのであって,それは古くから〈自由意志〉論と〈奴隷意志〉論との間で論争が繰り返されてきたことに示されるとおりである。そして,自由がこのような論争的な概念であるとすれば,人間の自由について考えてみるためには,それを思想史の文脈において検討してみることが必要であろう。

このように、

自由が議論されるのは、

相手がいる場合であり、

何が自由で何が自由ではないかは、

共同体の価値観の影響も受けます。

だから、

一概に何が自由で何が自由ではないかを

決めることは困難であるということです。

 

では、

何が自由で何が自由ではないかを決めずに

曖昧のままでいいのでしょうか。

多様性を認めて、

自由の考え方はそれぞれあっていいよね、

でいいのでしょうか。

 

しかし、

そういう自由の放置が、

際限ない自由主義を生んだのではないでしょうか。

 

では、

逆にどこから自由を制限するかの明確な線引きをすべきでしょうか。

その線引きを権力者に委ねれば、

全体主義のきっかけを生むことは上で述べました。

 

では、

どうするか?

 

  伝統的価値観に馴染まない自由論

「どうするか」については次の記事で書きたいと思います。

 

ここでは、

積極的自由で述べた違和感について

少し書きたいと思います。

 

「自由」について日本で議論されるようになったのは、

明治維新後の欧化政策が始まってからです。

ここからは全く個人的な見解なのですが、

人間は社会の一員と考えるのか、

基本的には個人であると考えるのかの違いのような気がします。

 

儒学の影響を受けている日本の伝統的価値観では、

人倫を基本としており、

人間関係の中で自分の役割を果たすことで、

個が確立されてきました。

そして社会が功利で汚染されないように、

よりよい人間関係を築くことが大切でした。

 

一方、

西洋では個人が基本であり、

他者の存在は個人の自由や権利を妨げる存在でした。

そこで他者が存在する中で、

個人の自由を制限する力と闘ってきました。

その争いの中で、

哲学者は何が自由なのかを議論してきました。

 

自由の議論が複雑なのは、

自分の自由と他人の自由がトレードオフの関係にあるからで、

自分の自由を求めれば求めるほど、

他人の自由が制限され、

他人が自由を求めれば求めるほど、

自分の自由が侵されるからです。

そして、

その原因は前提にあるように思います。

人間は個人が基本であるという前提です。

そこに理想を求めるから、

自由の議論を難しくしているのではないでしょうか。

 

そういう意味で、

自由の議論を読みながら、

難しい話をしているなぁと思いつつも、

会沢正志斎の『新論』や、

松波治郎の『葉隠武士道』を読んだときの感動がありませんでした。

恐らく、

西洋の自由の議論に、

自分が他者の役に立つ、

他者の役に立っている、

という「生き方」や「心構え」と、

そのように生きる事で

自分自身が成長できるという考え方を感じないからでしょう。

 

仮に、

他者の自由を尊重した上で、

自分のどの自由に制限をかけるのかという問題が数学的に解けるとして、

その解を求めた時、

他人に迷惑をかける全ての自由に制限をかけるという解に

落ち着くと思われます。

 

それって、

倫理的意識が行き届いた社会ではないでしょうか。

それこそ、

儒教的な価値観に従った社会と言えそうです。

 

上で述べたように、

日本で自由が議論されるようになったのは、

明治維新後の欧化政策で、

個人の自由が意識されるようになってからです。

それ以前に哲学的に自由が議論されてこなかったのは、

日本人の知的レベルが西洋に劣っていたからではなく、

伝統的価値観に基づいて各自が行動することによって、

互いの自由を侵すことがない社会を形成してきたからではないでしょうか。

そこには自分の自由が制限されているという意識はなかったと思われます。

 

そこに、

個人の自由という価値観を植え付けられてしまったが故に、

人倫や儒教が自分の自由を侵していると指摘されたことで、

これらを否定してしまった。

その結果、

逆に互いの自由を侵す状態を作り、

自由に対する哲学的な議論を要したのだと想像します。

何とも皮肉なマッチポンプですね。

 

  まとめ

今回は、

「自分勝手は自由か?」と言う問いに答えるために、

より自由についての議論を丁寧に行ってみました。

 

バーリンの積極的自由と消極的自由について考え、

消極的自由は制限されるべきであることを述べました。

 

次回は消極的自由のどの自由を制限し、

どうすれば自由になれるのかを考えます。

 

では、

今回はここまでとします。

最後までお読みいただきありがとうございましたウインク

また、お会いしましょうラブ

したっけねーパー笑い