ジキです。

 

物凄くお久しぶりです

お伝えしたいことが山ほどあったのですけど、

暫く勉強していました。

 

わたくし恥ずかしながら本を読むのが遅いのです。

滅茶苦茶考えながら読むので。

だから、

あっという間に読んでしまえる人が羨ましいです。

 

さて、

今回久しぶりに書こうと思ったことは、

コロナではなく、

「民主政」についてです。

唐突ですけど。

 

昨年度から「道徳」を知的の子供たちに教えることについて考えていて、

その前に私が道徳的でないとアカンだろうと、

道徳について勉強していたのでした。

 

で、私はご覧のように素直ではないので、てへぺろ

道徳の教科書を読むわけではなく、

「真善美」から始めて、

次に武士道、

そこから水戸学に行き、

社会契約論に行きついたのです。

 

全然道徳と違うやんと突っ込まれそうですが、キョロキョロ

そうじゃないんですよ。

 

道徳の勉強を始めたら、

これは単純に礼儀やマナーを身につけさせることではなくて、

子供の個を確立させること、

そして、国家を形成することと大きく関わっていることに気付いたのです。おねがい

 

そこで、民主政

(民主主義と書きたいところですが、

〇〇主義はイデオロギーなので、

デモクラシーの訳語として民主政と書きます。)

を知るためにルソーの『社会契約論』を読みました。

 

それで色々なことが分かるのですが、

さらに中江兆民が儒学の文脈で『社会契約論』を解釈していると、

北海道教育大学の古川雄嗣氏が動画で述べていたので、

 

彼の著書である『大人の道徳』を読み、

  1. 改めて道徳と国家形成が大きく関わっていることを認識したこと、
  2. 更に今までの私の解釈が大きく間違っていたこと、
  3. そして朱子学の文脈で『大人の道徳』を解釈しようとすると、
    滅茶苦茶分かりやすかったことから、

その経験を自分のブログに書き残そうと思ったのです。

 

前置きが長くなってしまいましたが、

今回はさわりだけ述べたいと思います。

 

  真の民主政は存在しない
 

『社会契約論』137頁に驚くことが書いてあります。

だから民主政という概念を正確に定義するならば、真の民主政はこれまで存在したことはなく、これからも存在することはないだろうと言わざるをえない。多数者が統治し、少数者が統治に服するということは、自然の秩序に反するのである。

日本は間違いなく民主政だと思っておりましたが、

ルソーに言わせれば、

真の民主政ではないようです。

 

それは何故か?

139頁にこう書かれています。

もしも神々からなる人民であれば、この人民は民主政を選択するだろう。これほどに完璧な政体は人間にふさわしくない。

つまり、国民が人間だからです。

 

身も蓋もない話ですけど、

だったら実現できない政治制度を論じることに意味を感じませんよね。

 

  「士民」による民主政

そこで中江兆民の登場です。

兆民はこの『社会契約論』に感銘を受けて、

儒学の文脈で漢訳し『民約訳解』を書きました。

 

その中で『社会契約論』で使われている「市民(citoyen)」を「士民」と訳しました。

市民は社会契約論で重要な用語で、

民主政を実践する共同体の構成員を指します。

 

上の説明では構成員が神であれば民主政が実現可能です。

ここで「士民」とは儒学で言う「君子」のことです。

簡単に言うと儒学を学び徳を身につけた人のことを言います。

日本で言うと儒学を修養し政治を担っていたのは武士であったことから、

兆民は「君子」を「士民」としたのです。

 

このことから、

徳をつんだ「士民」であれば民主政が実現できるということができます。

実際、

『社会契約論』で使われている「市民」の意味は、

徳のつんだ人間のことを言っています。

 

ですから、

ルソーがこれからも真の民主政が存在しないと言ったのは、

国民全員が「士民」であることが期待できないからです。

実際、

国民全員が「士民」である国は現時点で存在していません。

 

  「自由」とは何か

民主政において「自由と個人の尊重」は重要な概念だと思います。
 
ですが、
『葉隠武士道』では、
明治政府が欧化政策を推進し自由主義と個人主義を取り入れたことで、
モラルが低下したと指摘しています。
際限ない「自由と個人」を謳歌することは利己的であり、
功利主義を生むからです。
 
では、
「自由と個人」を尊重する民主政は功利主義を生む政体なのでしょうか。
だとすると、
人民が神々であれば民主政を選択するという説明に矛盾しますし、
兆民はなぜ感銘を受けて漢訳したのでしょうか。
 
それは「自由」の捉え方にあります。
『大人の道徳』を読んで、
私が間違って捉えていたことに気付かされました。
 
では、
本当の自由とは何でしょうか。
平たく言うと、
「理性に基づいて行為できる状態」のことです。
 
ですから、
我欲に基づいて金もうけに走ることも自由であるように見えますが、
それは理性に基づいていないので、
不自由なのです。
 
これはどういう事でしょうか。

 

  「人間」とは何か

『大人の道徳』によれば、

カントやデカルトが定義する人間とは、

理性を持っている「理性的存在者」であるということです。

それが動物と人間を分ける基準です。

 

何とも西洋的だと思いますが、

西洋哲学ではそういう前提で議論が進められており、

『社会契約論』でもそれを前提としています。

 

ですから、

人間が自由であるということは、

理性に基づいて判断し行動できる状態にあるということになります。

 

逆を言うと、

理性に基づいて行動できない者は「人間」ではないということになります。

『社会契約論』では「奴隷」と呼んでいますし、

儒学では「小人」と呼びます。

自然の欲求に従って行動する者や、

我欲に従って行動する者は「人間」ではないということです。

 

ですから、

理性を持った人間が、

修養し徳を積んで「士民」となれば民主政が実現できるということです。

奴隷や小人の作る国家では真の民主政が実現できません。

 

  自由主義と個人主義

「自由」の意味が理性に基づいて行動することであるならば、

欧化政策で取り入れられた「自由主義」や「個人主義」とは何だったのでしょう。

 

恐らく、

「我欲主義」「功利主義」「利己主義」と呼ぶべきものであったのだと思います。

だからモラルの低下が起こったのです。

現代も「自由」の意味を履き違えて使用されているため、

モラルの低下は進む一方です。

 

ですから、

学校では正しい意味を子ども達に教えなければなりません。

 

  どうすりゃ自由になるかーい

こうして考えると私の青春でもあった「ロック」は正に不自由なのですね。
 
自由になりたくて、
束縛する学校との闘いの中で、
盗んだバイクで走りだしたり、
夜の校舎窓ガラス壊して回ったりするのは不自由であるということです。
 
ロックシンガーが本当の自由を求めるならば、
皆学級委員長みたいになっているはずですね。ガーン
 
自由っていったいなんだーい照れ
→理性的に行動することです。
 
どうすりゃ自由になるかーい爆  笑
→理性的に行動すればなります。
 
君は思うように生きているか―いウインク
→我欲に従って思うように生きると逆に不自由になります。
 
ということですよね。
結局、
ロックは我欲を求めていたってことになりますね。
身も蓋もない話になりました。
私は何に心を躍らせていたのだろう…。

 

でも、

よくよく考えると、

自由と自分勝手の狭間の中で悩んでいたんだよな。

あの頃の私は。

自由って一体何だーいって滝汗

 

  まとめ

今回は長くなりましたが、

民主政について知り得たことのさわりの部分について書きました。

 

恐らくこんな文章の需要はないと思いますが、

私の仕事にも関係することですので、

理解を深めるという意味でも、

これからも民主政について述べていきたいと思います。

 

今回はあまりしませんでしたが、

私なりに朱子学の文脈で『大人の道徳』を捉えなおし、

噛み砕いてお話しできたらいいなと思っております。

 

では、

今回はここまでにします。

最後までお読みいただきありがとうございましたデレデレ

また、お会いしましょうラブ

したっけねーパー笑い