社会組織編成原理としての儒教 | 工具マニアで困ってます

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このプロダクトーサイクルは本来、製品が市場に出てから衰退までを一つのサイクル(導入期・成長期・成熟期・衰退期)として考え、このサイクルの各局面を通じて国際分業パターンがどのように変化するかを論じるもので、アメリカのR・バーノン教授が一九六六年に発表した論文において提示されたといわれる。サイクルの各局面(時期)において、国際間の直接投資などを通じてその商品の生産技術が国際的に伝播し、労働豊富な発展途上諸国に比較優位が移行する可能性があるというのである。その際、発展途上国にそれなりの「社会的能力」とりわけ熟練労働力、企業経営能力、行政的能力がそなわっていることが重要視される。


しかしながら、この説だけでは必ずしもニックス化の要因を完全にとらえたとはいいきれない。インダストリアリズムの波及という発展史観に立つこの説は。「後発性利益」によって現代の発展途上国が「先進国」をモデルに単線的発展をなしとげられるとみているからである。もしそうであるならば、発展途上国の多くは、つぎからつぎにニックス化しても怪しくないはずであるが、なぜアジアの四ヵ国・地域にかぎってニックス化したのかが説明されないし。また、なぜ七〇年代に入って以降にニックス化したのかも説明できない。前述の「社会的能力」が、まさか七〇年代に入って急速に高まったわけでもあるまい。


ニックス化「成功」の要因について、いま一つの説は、社会組織編成の原理からとくアプローチ、すなわちアジアニックス化を儒教文化圏諸国・地域の発展とみる、いわばコンフューシヤニズムの倫理に求められる。韓国を含む儒教社会において、儒教が確固たる社会組織の編成原理を有しているものとみなされ、とりわけ「家族」内の倫理秩序を基礎に、「国家」というマクロ社会の上下秩序を築き上げるその「忠孝信義」の原理の貫徹によって、基層倫理と政治秩序が一体化され、君主を頂点におく天下国家観が樹立される。


こうした儒教社会において、「一君万民」という集権的中央政府、上下関係の強い社会秩序が定着し、文武百官を擁した官僚組織の広範な発達がみられる一方、他方ではそれに歩調を合せた儒教特有の「徳治主義」が民衆を教化し、「一君万民」の社会秩序を根底から支えていくことになる。中国の官僚制度のなかに、儒教的素養を無上のおもむきにした文官が「科挙」という手続きをふまえて。はじめて中枢の地位に定められることは、まさしく儒教の政治的転化であり、それに適応する社会組織編成原理に儒教がうまくインプットされた象徴的なシステムであると考えられるのである。


しかしながら、こうした社会組織編成原理としての儒教がニックス化とどういう因果関係にあるのかといえば、いまひとつはっきりしない。かつて比較社会経済史に大きな足跡を残したM・ウェーバー(一八六四―一九一九年)は、ピューリタニズム(清教徒主義)の倫理は現世に対して合理的に「構築」していく内在的条件を備えていたが、儒教の倫理は、むしろそれに対して自己禁欲的に「適合」していくことに価値観をおき、それゆえに儒教社会においては、原理的に近代資本主義の生成になじまない、という趣旨のことを述べたことがあった。それがいつのまにか逆説的にとられ、儒教社会が追求している価値は、権威主義ではなく経済の近代化にほかならないといわれるようになった。


強力な家族制に根をおろした儒教社会において、韓国では「財閥」の成功にみられるように、同族的経営の効串化をもたらし、また台湾では、科挙の伝統が教育を通じて出自を問わない社会的上昇のチャンネルを敷き、社会経済の活力を再生させるということで「古き皮袋にあたらしき酒を注ぐ」ものと再評価される。そして、シンガポールは「儒教社会主義者の資本主義国」、ホンコンは「中国的奇跡の国」(『脱アメリカの時代』ホクハインズ‥カルダー、日本放送出版協会、一九八二年)という評価も生まれている。


この説は、前の説すなわち「後発性利益」に比べて、儒教社会という条件から、対象となる国家・地域が限定され、さしずめアジアニックス(それに日本)に限っていi点で、それなりの適用範囲が狭められ、その意味で一歩前進といえるかも知れないが、しかし、それにしても、難点がある。一つは儒教圏以外のニックス化が近い将来において出現した場合、どういうふうに再説明をすればよいのか。