「わたしに従ってきなさい」の聖句学習 -302ページ目

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

キリストあってこそのクリスマス―イエスの降誕を祝う

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

黙示録2:4
しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。



「誠実であることについて」2015年4月、ディーター・F・ウークトドルフ、大管長会
自分を最大限に良く見せたいと思う気持ちは,人間の本性の一部です。この気持ちがあるからこそ,わたしたちは家の外見を良くしようと懸命に努力し,若いアロン神権者の兄弟たちは誰か特別な人にばったり会っても慌てないように髪の毛一本まできちんと整えます。ホームティーチャーが来る前には靴を磨き,家の中に異臭がないよう確認し,汚い皿を隠したりもします。これは何も悪いことではありません。しかし,度が過ぎると,良い印象を与えようという望みは有益ではなくごまかしになってしまいます。

「口をもって〔主〕に近づき,くちびるをもって〔主〕を敬うけれども,その心は〔主〕から遠く離れ」イザヤ29:13ている人たちに対して,主の預言者は常に警告の声を上げてきました。

救い主は謙遜で誠実な罪人に対しては思いやりと哀れみに満ちておられました。しかし,律法学者やパリサイ人,サドカイ人のような偽善者に対しては義にかなった怒りに駆られて立ち上がられました。祝福するべき人々を抑圧していながら,世の称賛や影響力,富を勝ち取るために,自分を義人であるかのように見せようとしていたからです。 救い主は彼らを「外側は美しく見えるが,内側は死人の骨や,あらゆる不潔なものでいっぱい」な「白く塗った墓」マタイ23:27に例えられました。

現代において主は,「​自分​の​​罪​を​​覆い​隠そう​と​したり,自分​の​​高慢,自分​の​うぬぼれた​野望​を​満たそう​と​したり」する神権者に対して,同様に厳しい言葉を使い,もしそのようにするならば「天​は​​退き​去り,主​の​御霊​は​深く​悲しむ。そして,主​の​御霊​が​退き​去る​と,その​人​の​神権,すなわち​権能​は​終わり​で​ある」教義と聖約121:37と言っておられます。

なぜそうなるのでしょうか。活発で豊かで献身的に見えるよう努力していながら,心は,黙示者ヨハネがエペソ人について言っているように「初めの愛から離れて」黙示2:4しまっていることがあるのはなぜなのでしょうか。

場合によっては,単に福音の真髄を見失い,「神を敬うさま」を「神の力」ジョセフ・スミス—歴史1:19参照。教義と聖約84:20も参照)と取り違えていることがその理由になっていることがあります。利益や影響力を得るために弟子であるかのような行いをして人に良い印象を与えようとしている場合は,特に危険です。パリサイ人の領域に入ってしまいかねません。ですからそのような場合には,自分の心を吟味し,直ちに軌道修正しなければなりません。

 

 

 

キリストあってこそのクリスマス―イエスの降誕を祝う

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

黙示録1:17-18
わたしは彼を見たとき、その足もとに倒れて死人のようになった。すると、彼は右手をわたしの上において言った、「恐れるな。わたしは初めであり、終りであり、 また、生きている者である。わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。そして、死と黄泉とのかぎを持っている。


「主なる神はあなたの手をとり」2003年10月、W・クレーグ・ズウィック、七十人定員会
神の御手の内にあるということは,単に注意深く見守られているというだけでなく,神の驚くべき力によって守られ,保護されていることも意味します。

聖文の至る所に,主の御手という言葉が出てきます。主の助けが繰り返し与えられてきた証拠です。世界を創造された主の力強い御手は,幼子を祝福するほど優しいものでもあります。

復活されて栄光に満ちた救い主について述べた,ヨハネの言葉を考えてみましょう。「わたしは彼を見たとき,……彼は右手をわたしの上において言った,『恐れるな。わたしは……生きている者である。わたしは死んだことはあるが,見よ,世々限りなく生きている者である。』」黙示1:17-18主がその御手を頭に置いてくださるとき,わたしたちもヨハネのように主にあって生きることができます。

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

黙示録1:5
また、忠実な証人、死人の中から最初に生れた者、地上の諸王の支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。わたしたちを愛し、その血によってわたしたちを罪から解放し、


「贖罪」(英文)2012年10月、ボイド・K・パッカー、十二使徒定員会
生涯を通じて、行くべきでなかった場所に行ってしまったり、するべきでなかったことをしてしまったりする時があるかもしれません。罪と決別するならば、いつの日か、完全な悔い改めの道に従うことによって得られる平安を知ることができるでしょう。

わたしたちがどのような罪を犯したのであれ、自分の行為がどれほど人を傷つけたのであれ、その罪はすべてぬぐい去ることができるのです。わたしにとって、あらゆる聖文の中で最も美しい言葉は、主が語られた次の言葉です。「見よ、自分の罪を悔い改めた者は赦され、主なるわたしはもうそれを思い起こさない。」教義と聖約58:42

これこそまさにイエス・キリストの福音と贖罪の約束です。来る者、加わる者を受け入れ、彼らに経験を得させ、彼らが生涯の終わりに、罪を悔い改め、キリストの血を通して洗い清められた状態でとばりを通り抜けることができるようにすることなのです。黙示1:5 参照)

これこそ末日聖徒が世界中で行っていることです。これこそが、暗闇の中にあり、道を見失ってしまっている人たちのために、わたしたちが提供している光なのです。会員や宣教師がどこに行くのであれ、わたしたちのメッセージは救い主イエス・キリストに対する信仰と希望のメッセージです。