黙示録2:4
しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
「誠実であることについて」2015年4月、ディーター・F・ウークトドルフ、大管長会
自分を最大限に良く見せたいと思う気持ちは,人間の本性の一部です。この気持ちがあるからこそ,わたしたちは家の外見を良くしようと懸命に努力し,若いアロン神権者の兄弟たちは誰か特別な人にばったり会っても慌てないように髪の毛一本まできちんと整えます。ホームティーチャーが来る前には靴を磨き,家の中に異臭がないよう確認し,汚い皿を隠したりもします。これは何も悪いことではありません。しかし,度が過ぎると,良い印象を与えようという望みは有益ではなくごまかしになってしまいます。
「口をもって〔主〕に近づき,くちびるをもって〔主〕を敬うけれども,その心は〔主〕から遠く離れ」(イザヤ29:13)ている人たちに対して,主の預言者は常に警告の声を上げてきました。
救い主は謙遜で誠実な罪人に対しては思いやりと哀れみに満ちておられました。しかし,律法学者やパリサイ人,サドカイ人のような偽善者に対しては義にかなった怒りに駆られて立ち上がられました。祝福するべき人々を抑圧していながら,世の称賛や影響力,富を勝ち取るために,自分を義人であるかのように見せようとしていたからです。 救い主は彼らを「外側は美しく見えるが,内側は死人の骨や,あらゆる不潔なものでいっぱい」な「白く塗った墓」(マタイ23:27)に例えられました。
現代において主は,「自分の罪を覆い隠そうとしたり,自分の高慢,自分のうぬぼれた野望を満たそうとしたり」する神権者に対して,同様に厳しい言葉を使い,もしそのようにするならば「天は退き去り,主の御霊は深く悲しむ。そして,主の御霊が退き去ると,その人の神権,すなわち権能は終わりである」(教義と聖約121:37)と言っておられます。
なぜそうなるのでしょうか。活発で豊かで献身的に見えるよう努力していながら,心は,黙示者ヨハネがエペソ人について言っているように「初めの愛から離れて」(黙示2:4)しまっていることがあるのはなぜなのでしょうか。
場合によっては,単に福音の真髄を見失い,「神を敬うさま」を「神の力」(ジョセフ・スミス—歴史1:19参照。教義と聖約84:20も参照)と取り違えていることがその理由になっていることがあります。利益や影響力を得るために弟子であるかのような行いをして人に良い印象を与えようとしている場合は,特に危険です。パリサイ人の領域に入ってしまいかねません。ですからそのような場合には,自分の心を吟味し,直ちに軌道修正しなければなりません。


