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「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

創世48:16

すべての災からわたしをあがなわれたみ使よ、この子供たちを祝福してください。またわが名と先祖アブラハムとイサクの名とが、彼らによって唱えられますように、また彼らが地の上にふえひろがりますように。

 

「キリストに対する新しい証人」(英文)1984年10月、エズラ・タフト・ベンソン、十二使徒定員会

キリスト教徒は聖書を用いています。そして、私たちも同じように聖書を受け入れています。聖書には、ひとつの民、すなわちユダヤ人、彼らの土地、聖地、預言者、そしてイエス・キリストの生誕とその恵みと導きの業が書かれています。

 

しかしイスラエルの支族はひとつだけでしょうか。長子の特権を持ち、イスラエルの家族を飢饉から救ったヨセフはどうでしょう。ヨセフの息子たちはイスラエルから「わが名と先祖アブラハムとイサクの名とが、彼らによって唱えられますように」創世48:16との祝福を授けられましたが、あのヨセフはどうでしょう。

 

「泉のほとりの実を結ぶ若木。その枝は、かきねを越えるであろう」創世49:22と、ヤコブから祝福と約束を受けたヨセフ。そのヨセフの記録はどこにあるのでしょう。

 

私たちは、ヨセフの記録、すなわちモルモン経があることを世に証します。ユダのようにヨセフも一個の民を形作っていたのです。その中にニーファイ人とレーマン人がいました。ユダと同じように、ヨセフはアメリカという土地を与えられました。またユダの民と同じく、ヨセフの民にも預言者がいて、復活した主イエス・キリストは彼らにも現われたもうたのです。

 

 

 

 

聖句とそれを引用した預言者たちの言葉2026年版(BOX)

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

創世46:2

この時、神は夜の幻のうちにイスラエルに語って言われた、「ヤコブよ、ヤコブよ」。彼は言った、「ここにいます」。

 

「へりくだる者が聖壇でひざまずく」2025年10月、ジェレミー・R・ジャギ、七十人

アブラハムは祭壇を作って一人息子のイサクを縛り、犠牲としてささげようとしましたが、彼の手は止められ、主が宣言されたように、「はい、ここにおります」創世22:11と宣言しました。「わたしは有る」という御方または主の預言者は、これまで何度「ここにおります」と自ら進んで言われたことでしょう。創世31:1146:2出エジプト3:4サムエル上3:4-10イザヤ6:8;アブラハム3:27参照)

 

山上の垂訓の中で救い主は、祭壇に行く前に兄弟姉妹と和解するように言われました。マタイ5:23-24参照)イエス・キリストの贖罪を通してわたしたちは、祭壇で「きよめられ〔る〕」ヘブル10:10-14参照)とパウロは教えています。

 

預言者リーハイは「自分の家や……貴重品を後に残して〔出て行き、〕……〔それから〕一つの祭壇を築き、主にささげ物をして、主……に感謝をささげ」1ニーファイ2:4、7ました。

 

聖書とモルモン書は、祭壇で神の御子を礼拝するよう教えています。なぜでしょうか。

 

わたしたちの最初の先祖であるアダムとエバは、祭壇を築き、そこで礼拝しました。モーセ5:5;『聖句ガイド』「イエス・キリスト、予型」の項参照)エデンの園から追い出された後も礼拝していましたが、「多くの日」の後、天使が訪れて、心に響く質問をしました。「あなたはなぜ主に犠牲をささげるのか。」これは、わたしたち一人一人への問いかけかもしれません。

 

アダムは答えました。「わたしには分かりません。」

 

分からないとアダムが謙遜に認めると、天使は驚くべきことを言いました。「これは、御父の独り子の犠牲のひながたである。……したがって、あなたが行うすべてのことを御子の御名によって行いなさい。また、悔い改めて、いつまでも御子の御名によって神に呼び求めなさい。」モーセ5:5-8

 

聖餐のテーブルと神殿の聖壇は、イエス・キリストの犠牲とその無限の贖罪を象徴しています。

 

聖約を交わして尊び、教会で聖餐の儀式を受け、神殿でエンダウメントと結び固めを受けることで、わたしたちは救い主に結びつき、主の憐れみと守り、(『総合手引き—末日聖徒イエス・キリスト教会における奉仕』27.2聖め、癒し、安息を受けるようになります。

 

 

 

 

聖句とそれを引用した預言者たちの言葉2026年版(BOX)

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

創世45:24

こうしてヨセフは兄弟たちを送り去らせ、彼らに言った、「途中で争ってはなりません」。

 

「郷愁」(英文)19992年10月、マービン・J・アシュトン、十二使徒定員会

時折私たちは、トレーニングに全力を傾けるよりもどのようなジョギングスーツを着たらよいかに関心を持つ、場慣れした選手のような行動をとる危険を冒していないでしょうか。

 

C・S・ルイス(1898-1963年、イギリスの小説家・批評家)は、このようなジレンマを次のように巧みに表現しています。

「人は中途半端な生き物で、永遠の喜びが与えられているのに、酒や性的な快楽や野心に振り回される。それは、海辺で休日を過ごすことがどんなに楽しいかを知らないために、スラム街でどろんこ遊びを続けたがる無知な子供のようである。……つまらぬことですぐに満足してしまうのはなんとも遺憾である。」(『目覚めた心』p.168)

 

預言者モルモンは別の言い方をしています。

「なぜキリストの御名を受けることを恥とするか。永遠の幸福はとこしえに止まない不幸にまさって価値があるのに、なぜあなたたちは世の誉れを思ってこのことを信じないのか。」モルモン8:38

 

私たちは何のためかわからずに強いあこがれを感じることがありますが、おそらくそれは、私たちの心の中心である主を求め、主から離れず、この世が与えるものよりもより高く、より良く、より満ち足りたものを求めているからではないでしょうか。

 

ヤコブの一番下の息子のヨセフが兄たちに再会した後、カナンの家に戻り父ヤコブをエジプトに連れてくるように頼みました。兄たちが出発の準備をしていると、ヨセフはただこう言いました。

「途中で道をそれてはいけません。」欽定訳創世45:24

 

私たちが地上への旅路に就くために天父のそばを離れるとき、天父は同じような助言をしてくださったのではないでしょうか。

 

郷愁の念がこの世で正しく生活するのに必要な動機となり、天の家へ帰り父なる神と共に永遠に住めるようになりますよう、へりくだりイエス・キリストのみ名によりお祈りいたします。アーメン。

 

※(ブログ主注)創世記45:24の “See that ye fall not out by the way”fall out は「道を外れる」というより「争う・仲違いする」という意味です。したがって最も自然な訳は 「道中で争い合うことのないようにしなさい」 となります。アシュトン長老はこれを、人生の旅路で神から離れたり互いに争ったりしないようにという霊的教訓として、神が望んでおられる道から外れないようにという意味として用いているものと考えます。

 

 

 

The two ways by Jorge Cocco Santangelo

 

聖句とそれを引用した預言者たちの言葉2026年版(BOX)