それは教訓に教訓、教訓に教訓、
規則に規則、規則に規則。
ここにも少し、そこにも少し教えるのだ」。
「個人の啓示の枠組み」2022年10月、デール・G・レンランド、十二使徒定員会
自分の問題に当てはまる個人の啓示を受けていて,その状況が変わっていなければ,神はすでにわたしたちの問いかけに答えておられます。(ジョセフ・スミスは次のように教えました。「わたしたちは,その事例に合った啓示が前に与えられていない場合を除いては,決して神の御手に特別な啓示を求めることはしない。」(in History, 1838–1856 [Manuscript History of the Church], volume A-1, 286–87, josephsmithpapers.org))例えば,わたしたちは赦されていることを再度確認するために何度も祈り求めることが時々あります。わたしたちが悔い改め,喜びと良心の平安に満たされ,罪の赦しを受けているならば,再度求める必要はありません。神がすでに答えを与えてくださっていると信頼することができます。(モーサヤ4:3参照わたしたちが真心から意識的に悔い改めた後にも引き続き罪の意識や後悔の念を感じる場合,それは通常,イエス・キリストに対する信仰と主が完全にわたしたちを赦し癒してくださる力をお持ちであることへの信仰が足りないからです。時々,わたしたちは赦しはほかの人々のためであって,自分には当てはまらないと思うことがあります。これは,主が無限の贖罪を通して成し遂げてくださったことに対する信仰の単なる欠如です。)
神から以前与えられた答えを信頼しながらも,わたしたちはさらなる個人の啓示に対して心を開いておく必要があります。結局,人生において無着陸飛行で到達できる目的地はほとんどありません。わたしたちは個人の啓示が「教えに教え,訓戒に訓戒を加え」るように与えられることと,(イザヤ28:10;2Ne28:30;David A. Bednar, “Line upon Line, Precept upon Precept,” New Era, Sept. 2010, 3–7 参照)啓示される導きが多くの場合徐々に与えられることを理解しなければなりません。(しかし,もし神があなたに啓示を与えてくださらなければ,求め続けてください。リチャード・G・スコット長老は次のように教えています。「信頼を胸に前進してください。……皆さんが義にかなった生活を送っていて,神を信頼して行動しているならば,間違った決定をしている場合,神は警告的な気持ちを与えないまま,皆さんが進みすぎてしまうのを黙って見ているようなことはされません。」(「祈りという天与の賜物を用いる」『リアホナ』2007年5月号,10))
