これは彼らが神の霊にそむいたとき、
彼がそのくちびるで軽率なことを言ったからである。
「あなたがたの行うことを神聖にしなさい」2002年4月、ニール・A・マックスウェル、十二使徒定員会
義にかなった働きの刈り取りを楽しむ前に、まずは神の手を認めようではありませんか。そうでないと次のような合理化が頭をもたげます。「自分の力と自分の手の働きで、わたしはこの富を得た。」(申命8:17)また、(ギデオンの思慮深い小さな軍隊を除く)古代イスラエルの民が「わたしは自身の手で自分を救ったのだ」と大言壮語したように、自ら「誇〔って〕」しまうのです(士師7:2)。自分自身の「手」を自慢すると、すべてのことの中に神の御手を認めることが2倍難しくなります(アルマ14:11、教義と聖約59:21参照)。
最も偉大な人物の一人モーセは、メリバと呼ばれる地で、水を巡って騒ぐ民に辟易していました。ほんの一瞬、モーセは「軽率なこと」を口にします。「われわれがあなたがたのために……水を出さなければならないのであろうか。」(詩篇106:33、民数20:10。申命4:21も参照)この代名詞の問題(訳注:モーセは「主が」と言うべきところを「われわれが」と言ってしまった)を通じて主は偉大な人物モーセを教育し、さらに大いなる者とされました。わたしたちもモーセのように柔和になることができます(民数12:3参照)。
イエスは決して、決して、決して焦点を失われませんでした。各地でたくさんの善い業を行われたにもかかわらず、贖罪が待ち受けていることをいつも御存じだったイエスは、先を見通してこう願い求められます。「父よ、この時からわたしをお救いください。しかし、わたしはこのために、この時に至ったのです。」(ヨハネ12:27。5:30、6:38も参照)
