神の受けられるいけにえは砕けた魂です。
神よ、あなたは砕けた悔いた心を
かろしめられません。
「打ち砕かれた心と悔いる霊」2007年10月、ブルース・D・ポーター、七十人
1899年,詩人のラドヤード・キップリングは,大英帝国に向けて高慢に対する警告の言葉を記しました。
喧騒と叫び声がやみ,
司令官や王は世を去っても,
いにしえの主の犠牲と,
へりくだり悔いる心は残る。
(God of Our Fathers, Known of Old,Hymns,80番)
キップリングが「いにしえの犠牲」としての悔いる心について話したとき,詩篇第51篇にあるダビデ王の次の言葉が心にあったのかもしれません。「神の受けられるいけにえは砕けた魂です。……砕けた悔いた心〔です〕。」(詩篇51:17)ダビデのこの言葉から分かるように,主の民は,ささげるべきは心であり,燔祭だけでは十分でないことを,旧約聖書の時代にすでに理解していました。
罪ある人類を神と和解させることがおできになったのは救い主だけであり,モーセの神権時代に命じられていた犠牲は,このメシヤの贖いの犠牲を象徴しています。アミュレクは次のように教えています。「見よ,これが律法の目的そのものであり,すべての部分がこの大いなる最後の犠牲を指し示している。……〔それが〕神の御子である……。」(アルマ34:14)
復活したイエス・キリストは新世界の人々にこう宣言されました。
「あなたがたの犠牲と燔祭は取りやめなさい。わたしはこれから,〔それらを〕受け入れないからである。
あなたがたは打ち砕かれた心と悔いる霊を,犠牲としてわたしにささげなさい。打ち砕かれた心……をもってわたしのもとに来る者に,わたしは……火と聖霊によってバプテスマを授けよう。」(3ニーファイ9:19-20)
