そこで、彼らは異教徒の犠牲にその心を向けて、これら口の利けない偶像に彼らの子供たちをささげ、わたしの声を聴こうとせず、エルケナの祭司の手によってわたしの命を取ろうとした。エルケナの祭司はまた、パロの祭司であった。 彼らがわたしをささげて命を取るために、その手をわたしの上に振り上げたとき、見よ、わたしは主なる神に声を上げた。すると、主は耳を傾けて聞いてくださり、全能者の示現でわたしを満たしてくださった。そして、主の前の天使がわたしの傍らに立ち、直ちに縄を解いてくれた。 見よ、ポテパルの丘は、カルデヤのウルの地にあった。主はエルケナの祭壇とその地の神々の祭壇を壊し、それらを完全に破壊し、祭司を打たれたので、彼は死んだ。そして、カルデヤに、またパロの宮廷に大きな嘆きがあった。パロとは、王族の血統による王を意味する。
「わたしたちと神との関係」2022年4月、D・トッド・クリストファーソン、十二使徒定員会
神を信頼し,現世で,あるいは死後に,主の約束された祝福を受けられると確信していた,忠実な男女の例について考えてみてください。彼らの信仰は,特定の状況において神がなさったことやなさらなかったことに基づいたものではなく,主が愛に満ちた御父でありイエス・キリストが忠実な贖い主であられるという知識に基づいたものでした。
アブラハムは,エジプトのエルケナの祭司によってまさにいけにえにされそうになったとき,神に救いを叫び求め,助けられました。(アブラハム1:7,15,20参照)アブラハムは生きながらえて忠実な者たちの父祖となり,その子孫を通して地上のあらゆる家族が祝福を受けることとなりました。(アブラハム2:11参照)それより以前,まさにこの同じ祭壇で,その同じエルケナの祭司が3人のおとめをささげました。彼女たちが「その節操のゆえに……木や石の神々をひれ伏して拝もうとしなかった」(アブラハム1:11)からです。彼女たちはその場で殉教しました。
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結局のところ,わたしたちが求めているのは,御父と御子との親密でいつまでも続く関係という祝福です。それはすべてを変えますし,永遠に代価を払う価値があります。わたしたちはパウロとともに,こう証するでしょう。「今の〔現世の〕この時の苦しみは,やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると,言うに足りない。」(ローマ8:18)わたしは証します。現世での経験がどのようなものであろうと,わたしたちは神を信頼し,神に喜びを見いだすことができます。
「心をつくして主に信頼せよ,自分の知識にたよってはならない。
すべての道で主を認めよ,そうすれば,主はあなたの道をまっすぐにされる。」(箴言3:5-6)
