わたしたちは、人は自分の罪のゆえに罰せられ、アダムの背きのゆえには罰せられないことを信じる。
「そこで彼らは恐れを静め」2015年4月、デビッド・A・ベドナー、十二使徒定員会
わたしたちがよく経験する恐れとは異なるものの,関連があるのが,聖文の中で「恐れかしこ〔む〕」こと(ヘブル12:28),つまり「主を恐れること」(ヨブ28:28;箴言16:6;イザヤ11:2-3)と表現されているものです。恐怖や不安を生じるこの世の恐れとは異なり,主を畏れることは平安と確信と自信の源です。
しかし,恐れと関連しているものがどうして人を教化し,霊的な助けとなり得るのでしょうか。
ここで説明しようとしている義にかなった畏れには,主イエス・キリストに対して深い崇敬と尊敬と畏敬の念を抱き(詩篇33:8;96:4参照),主の戒めに従い(申命5:29;8:6;10:12;13:4;詩篇112:1参照),最後の裁きと主の御手に正義を待ち望むことが含まれます。このように,主への畏れは主イエス・キリストの神性と使命についての正しい理解と,自分の思いを主の御心に喜んで従わせる意志と,全ての男女は裁きの日に自分自身の罪に対する責任を負うことになるという知識から生じます(教義と聖約101:78;信仰箇条1:2参照)。
聖文が明らかにしているように,主を畏れることは「知識のはじめ」であり(箴言1:7),「知恵の教訓」(箴言15:33),「安心を得」させるもの(箴言14:26),「命の泉」です(箴言14:27)。
