あなたの御手はいつまでとどめられ、あなたの目、まことにあなたの清い目はいつまで永遠の天からあなたの民とあなたの僕たちへの不当な扱いを眺め、またあなたの耳はいつまで彼らの叫び声で貫かれるのですか。
「忍耐し続ける」(英文)2010年4月、ディーター・F・ウークトドルフ、大管長会
イスラエルの民は、約束の地に入るまでに荒れ野で40年間待ちました。ヤコブはラケルのために7年間も待ちました。ユダヤ人は神殿を再建するために祖国に戻るまで、バビロンで70年間待ちました。ニーファイ人は、しるしが現れなければ殺されると知りながらも、キリスト降誕のしるしを待ちました。神の預言者であるジョセフ・スミスでさえも、リバティーの監獄での試練に対して「いつまで〔ですか〕」(教義と聖約121:2)と問いかけました。
いずれの場合も、天の御父が子供たちに待つように求められるときには、目的がありました。
だれもが待つことを求められます。わたしたちは祈りの答えを待ちますが、そのときの自分にとってふさわしく、良いと思われるものを待ち望んでいるので、なぜ天の御父が答えを延ばされるのか、どうしても分からないことでしょう。
わたしが戦闘機パイロットの訓練に備えていたときのことです。軍事予備訓練の大半は運動に費やされました。延々と走り続けることが、なぜパイロットになるのに不可欠なのか、今でもよく分かりません。しかし、とにかく走って、走って、走り抜きました。
わたしは走りながらあることに気づいて、正直なところ悩みました。幾度となくわたしを追い抜いて行くのは、たばこを吸い、酒を飲み、福音—特に知恵の言葉に反することを何でもしている男たちでした。
わたしは思いました。「ちょっと待て。走っても疲れないはずじゃなかったのか。」でも、実際に疲れましたし、しかも、知恵の言葉にまったく従っていない人に追い抜かれたのです。正直なところ、当時はそのことで悩み、自問しました。「あの約束はほんとうなのだろうか。」
答えはすぐには得られませんでした。しかし、やがて分かったのは、神の約束は必ずしもすぐに望みどおりに成就するとは限らないということです。答えは神の時と方法に従って得られます。わたしは何年も後に、神のすべての律法に従順であればすぐに与えられる霊的な祝福に加えて、知恵の言葉に従う人に与えられる物質的な祝福を自分の目で確かめることができました。振り返ってみると、主の約束は常に、即座にではないかもしれませんが、確実に成就するものなのです。
