まことに、わたしはあなたがたに言う。彼らの中で、その心が正直で、打ち砕かれていて、かつその霊が悔いていることを知っており、また犠牲を払って、すなわち主なるわたしが命じるあらゆる犠牲を払って自分の聖約を進んで守ろうとするすべての者は、わたしに受け入れられる。
主なるわたしは、良い土地で清らかな流れのほとりに植えられた、多くの貴い実を結ぶ実り豊かな木のように、彼らに実を結ばせるからである。
「奉仕の召し」2002年10月、ジェフリー・R・ホランド、十二使徒定員会
わたしたちが今日,このような境遇に置かれることはまずないでしょうが,それでも,主の御業を果たすために多大の犠牲を払う宣教師,教会員はたくさんいます。祝福が注がれ,教会が発展していく過程で,奉仕に伴う犠牲がこれまでお話ししてきた初期の教会員たちのように大きなものにならないことを,わたしたちは皆,願っています。それでも,今日宣教師たちが勝利の歌を歌いながらオズロからオソルノへ,またシアトルからセブへと召されて行くとき,わたしたちは「奉仕の召し」(『賛美歌』157番参照) を受けているのです。家庭を養いながら忠実に教会の召しを果たし,しかも自分の力以上に速く走らないようにするためには(モーサヤ4:27参照),知恵,判断力,神の助けが必要です。それに加えて,ある程度の犠牲を払うことも避けられません。アダムの時代から現代まで,主イエス・キリストに対する信仰には常に犠牲をささげることが伴ってきました。わたしたちのささげる小さな犠牲によって,主のささげられた大いなる犠牲を思い起こすためです。(この教義は非常に多くの箇所に見られるため,ここでは典拠をすべては列挙しない。モーセ5:4-8;3ニーファイ9:17-21;教義と聖約59:8-12;97:8-9参照) 預言者ジョセフ・スミスはイエス・キリストの贖いをしっかりと心に留めて,犠牲をささげる聖約を伴わない宗教が,永遠の命を約束することはあり得ないと教えました。(Lectures on Faith (1985年),68-69参照)
