多くの艱難の後に祝福は来る。それゆえ、あなたがたが大いなる栄光を冠として与えられる日が来る。その時はまだ来ていないが、もう近い。
「主の側に立つ」2004年10月、ジェームズ・E・ファウスト、大管長会
悪人だけでなく善人にも災難が降りかかる理由について,アーサー・ウェントワース・ヒーウィット博士は次のように述べています。「第1に,分かりません。第2に,わたしたちは自分で思っているほど善良ではないからです。しかし第3に,……主にとっては,わたしたちの幸福よりもわたしたち自身の方がずっと大事だからという理由が挙げられます。なぜでしょうか。では,行いに応じて個人に必ず報いが与えられるとします。善人はすべて常に幸福で,悪人はすべて災難に見舞われるのです。(現実には正反対のことがよく起こりますが。)人格を破壊する方法として,これほど巧妙なものが考えられるでしょうか。」(手紙からの抜粋)
またキンボール大管長は次のような洞察力のある言葉を残しています。
「悪を行った場合に,苦痛や悲しみ,徹底的な罰が直ちに与えられるとしたら,悪事を繰り返す人などいないでしょう。善を行えば直ちに喜びや平安,報いが得られるとしたら,悪人はいなくなります。すべての人が善を行いますが,正しいことをしたいという望みからではありません。この場合,人を強くする試練もなければ,人格形成も才能を伸ばす機会も選択の自由もありません。……そこにはまた,喜びも成功も,復活も永遠の命もなく,神となることもないのです。」(The Teachings of Spencer W. Kimball,エドワード・L・キンボール編(1982年),77)
神への愛は,利己的なもくろみのない純粋なものでなければなりません。キリストの純粋な愛が,わたしたちの献身する動機でなければならないのです。
さて,すべてが死をもって終わるとしたら,こうした苦難は実に理不尽だと言わざるを得ません。しかし,実際は違います。人生は1幕の劇ではなく,3幕あるのです。前世にいたときの過去の幕,今経験している現世の幕,そして神のみもとに戻る未来の幕の3幕です。(伝道12:7参照)イエスはこう約束なさいました。「わたしの父の家には,すまいがたくさんある。」(ヨハネ14:2)わたしたちがこの世に来たのは,試練を受け,試されるためです。主がアブラハムに説明されたように,「これによって彼らを試し,何であろうと,主なる彼らの神が命じられるすべてのことを彼らがなすかどうかを見」(アブラハム3:25)るのです。
パウロが言ったように,過去の苦労,現在の苦しみは,永遠の世で「わたしたちに現されようとする栄光に比べると,言うに足り」(ローマ8:18)ません。「多くの艱難の後に祝福は来る。それゆえ,あなたがたが大いなる栄光を冠として与えられる日が来る」(教義と聖約58:4)からです。このように艱難は,わたしたちが日の栄えの王国に入るにふさわしい者となるうえで役立ちます。
