すなわち、「父よ、罪を犯したことがなく、あなたが御心にかなうとされた者の、苦しみと死を御覧ください。あなたの子が流した血、すなわち、あなた御自身が栄光を受けるために、あなたがお与えになった者の血を御覧ください。
「とこしえに自由となり,思いのままに行動することができ」2014年10月、D・トッド・クリストファーソン、十二使徒定員会
正義は,神の本質的な属性の一つです。神を信じることができるのは,神が完全に信頼できる御方だからです。聖文には「神は曲がった道を歩まず,右にも左にも曲がらず,また述べたことからそれることはない。それゆえ,神の道はまっすぐであり,その道は一つの永遠の環である」とあります。(教義と聖約3:2)また,「神は人をかたよりみないかたで,神を敬い義を行う者はどの国民でも受け入れて」くださいます。(使徒10:34-35)わたしたちは,正義という神の属性を信頼して,信仰と確信と希望を持つことができるのです。
しかし,完全な正義の御方である神であられるがゆえにおできにならないことがあります。誰を救い,誰を追い出すかを適当に決めることがおできにならないのです。「ほんのわずかでも罪を見過ごしにする」こともできず,(教義と聖約1:31)憐れみが正義を打ち負かすのもお許しになれません。(アルマ42:25参照)
神が対となる憐れみの原則を定められたことは,神の正義が表す力強い証拠です。正義の御方であるからこそ,神は憐れみが人の永遠の行く末に重要な役割を果たすことができるようにされたのです。それで,今,「正義は正義のすべての要求を働かせ,また,憐れみは憐れみを受ける資格のあるすべての者について権利を主張する」のです。(アルマ42:24)
わたしたちは「罪を犯したことがなく,〔御父〕が御心にかなうとされた者の,苦しみと死……〔御父の〕子が流した血」(教義と聖約45:4)が正義の要求を満たし,憐れみをもたらし,人を贖うことを知っています。(モーサヤ15:9参照)そうではあっても,「正義によれば,贖いの計画は……悔い改めるという条件がなければ成し遂げられ」ません。(アルマ42:13)悔い改めるように求め,その機会を与えることで,正義を踏みにじることなく憐れみがもたらされるのです。
