見よ、この御方は数々の試練に耐え、肉体の苦痛や飢え、渇き、疲労に耐えられるが、それは人にとっては死ぬ以外に耐えようのないものである。見よ、御自身の民の悪事と忌まわしい行いのためにこの御方が受けられる苦しみは非常に激しく、あらゆる毛穴から血が流れ出るほどだからである。
「天から下ってきた生きたパン」2017年10月、D・トッド・クリストファーソン、十二使徒定員会
主の肉を食べ,主の血を飲むという言葉は,わたしたちの生活,すなわち人格そのものに,どれほど徹底して救い主の力を取り入れ,一つとなるようにしなければならないかを印象的な表現で示しています。どうやって取り入れるのでしょうか。
第一に,わたしたちは,イエスが御自身の肉体と血を犠牲としてわたしたちの罪を贖い,死に打ち勝たれたことを理解しています。(ルカ22:44;ヘブル13:12;モーサヤ3:7;15:7-8;アルマ7:13;教義と聖約19:18;38:4;45:4-5参照)ということは,主の贖罪の力と祝福を受けるとき,わたしたちは主の肉を食べ,血を飲んでいることになります。
キリストの教義は贖いの恵みを受ける方法を示しています。すなわち,キリストを信じる信仰を持ち,悔い改めてバプテスマを受け,聖霊を受け,そして「火と聖霊によって罪の赦しが与えられる」ことです。(2ニーファイ31:17)これが門であり,救い主の贖いの恵みを受け,主の王国へ続く狭くて細い道なのです。
「そして,キリストの言葉をよく味わいながら〔その道を〕力強く進み,最後まで堪え忍ぶならば,見よ,御父は,『あなたがたは永遠の命を受ける』と言われる。
見よ,これがキリストの教義であって,限りなく一つの神である御父と御子と聖霊の唯一の真正な教えである。」(2ニーファイ 31:20-21)
主の晩餐に表されている聖餐の象徴について深く考えると,そのすばらしさを実感します。パンと水は命のパンと生ける水であられる御方の肉と血を表し,(ヨハネ4:10参照)主がわたしたちを贖うために代価を支払ってくださったことをはっきりと思い出させてくれます。パンが割かれる様子を通して,救い主の肉が裂かれたことを思い出します。以前,ダリン・H・オークス長老はこのように述べました。「手で割かれたパンの一片一片はそれぞれ,大きさも形も違います。それをいただくわたしたち一人一人が違うことに似ています。悔い改めるべき罪は人それぞれですし,主イエス・キリストの贖罪によって強められなければならない部分も様々です。聖餐の儀式を通して,わたしたちは主を覚えます。」(Dallin H. Oaks, “Introductory Message” (address given at the seminar for new mission presidents, June 25, 2017), 2)水を飲むとき,わたしたちは主がゲツセマネや十字架で流された血と,その聖めの力について考えます。(モーセ6:60参照)「清くない者は,決して父の王国に入ることができない」と知っているため,わたしたちは「信仰を持ち,罪をすべて悔い改め,最後まで忠実であることによって,〔救い主〕の血により衣を洗われた者」となろうと決意します。(3ニーファイ27:19 。モロナイ10:32-33 も参照)
