さて、わたしモルモンは、愛する同胞であるあなたがたに話したい。父なる神とわたしたちの主イエス・キリストの恵みにより、また主がわたしに召しの賜物をお与えくださったので、主の聖なる御心により、わたしは今あなたがたに語る機会を得ている。
「求む―御業を速める手と心」2014年4月、リンダ・K・バートン、中央扶助協会会長
イエスの時代の裕福な青年のように,わたしたちも時に,諦め,来た道を引き返したい誘惑に駆られることがあります。恐らく,独りではできないと思うからでしょう。そのとおりです。助けがなければ,行うように求められても,難しいことは行えません。その助けは,イエス・キリストの贖罪,聖霊の導き,また他の人々の支援によって与えられるのです。
ある忠実な独身の姉妹が最近証を述べていました。贖罪を通じて彼女は,助けの手と進んで行う心を使って,がんで亡くなった姉が残した4人の子供を育てる力を見いだしたのです。ニール・A・マックスウェル長老がこう言ったのを思い出します。「教会がなすべきことのうち,容易なことは全て成し遂げられました。これからはより壮大な冒険になります。従順さが,思いも寄らない方法で試されるのです。」(ニール・A・マックスウェル,“The Old Testament: Relevancy within Antiquity”(教会教育システム宗教教育者への話,1979年8月16日)4;si.lds.org)皆さんがどのような人で,何を行う備えをしてきたかということが,この神権時代に地上に送られた理由です。自分を何者であると思うかについて,サタンがわたしたちをどのように説き伏せようとしても,わたしたちの真の姿はイエス・キリストの弟子なのです。
モルモンは真の弟子であって,「〔人々が〕一人残らず心をかたくなにし,……〔この〕ようなひどい悪事は,リーハイのすべての子孫の中に……これまで決してなかった」(モルモン4:11-12) と言われた時代に生きた人です。皆さんはその時代に生きていたかったでしょうか。にもかかわらず,モルモンは雄々しく,このように宣言しました。「見よ,わたしは神の御子イエス・キリストの弟子である。」(3ニーファイ5:13)
すばらしい人だと思いませんか。モルモンは自分が何者であり,どのような使命があるかを知っていて,周囲の悪にも気を取られませんでした。事実,彼は自分の召しを賜物と考えていたのです。(モロナイ7:2 参照)
弟子として日々務めるという賜物を主にささげて,言葉と行いによって「見よ,わたしはイエス・キリストの弟子である」と宣言するように召されていることは,何とすばらしい祝福であるか,考えてみてください。
