しかし、教会がわたしの福音の上に築かれておらず、人の業の上に、あるいは悪魔の業の上に築かれていれば、まことにあなたがたに言う、彼らはしばらくの間は自分たちの業を楽しむが、やがて最後が来て、彼らは切り倒されて火の中に投げ込まれ、そこから二度と戻ることができない。
「聖徒たちの喜び」2019年10月、D・トッド・クリストファーソン、十二使徒定員会
わたしたちは快楽主義の時代に生きています。多くの人が主の戒めの大切さに疑問を抱くか,単に戒めを無視しています。往々にして,純潔の律法や正直という標準,安息日の神聖さといった神からの指示をないがしろにする人々が,それらを守ろうと努力している人より繁栄し,人生でより多くの良いものを享受しているように見えることがあります。中には,努力や犠牲に価値があるのだろうかと思い始める人もいます。古代イスラエルの民は,かつて不平を言いました。
「神に仕える事はつまらない。われわれがその命令を守り,かつ万軍の主の前に,悲しんで歩いたからといって,なんの益があるか。
今われわれは高ぶる者を,祝福された者と思う。悪を行う者は栄えるばかりでなく,神を試みても罰せられない。」(マラキ3:14-15)
主は彼らに「わたしの宝となる」日まで待つように言われました。「その時あなたがたは,再び義人と悪人,神に仕える者と,仕えない者との区別を知るようになる。」(マラキ3:17-18)悪人は「しばらくの間は自分たちの業を楽しむが」,それは決まって一時的です。(3ニーファイ27:11)聖徒たちの喜びは,永続します。
神は物事をまことの観点から御覧になり,戒めを通してその観点をわたしたちに伝え,この世の隠れた危険や落とし穴を避けて永遠の喜びに至るように効果的に導いてくださいます。預言者ジョセフ・スミスはこう説明しています。「神の戒めがわたしたちに教えを授けてくれるとき,それは永遠を踏まえた教えです。わたしたちは神から,あたかも永遠の中にいるかのように見られているからです。神は永遠のうちに住んでおられ,物事をわたしたちのようには御覧にならないのです。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』475参照)
