さらに、わたしの神、まことに大いなる神は、我らがこれらのことを悔い改められるようにしてくださり、またこれまでに犯した多くの罪と殺人の罪を赦し、神の御子の功徳によって我らの心から罪を取り除いてくださった。わたしはこのことも神に感謝している。
「わたしがあなたがたを癒いやすことができるように,……悔い改めなさい」(英文)2009年10月、ニール・L・アンダーセン、十二使徒定員会
聖文には、私たちが死すべき世で捨てた罪を忘れるだろうとは書いてありません。そうではなく、主がお忘れになると書かれているのです(教義と聖約58:42-43。アルマ36:17-19も参照)。
罪を捨てるとは、二度と行わないことです。捨てるには時間がかかります。罪を捨てることができるよう、時に主は、犯した間違いのわずかな残りを私たちの記憶の中に置いておかれることがあるのです(ディーター・F・ウークトドルフ「帰還可能点」2007年4月)。それは、この世での学びの中で非常に大切な部分なのです。
正直に罪を告白し、傷つけた人にできるかぎり償い、戒めを守ることによって罪を捨てるとき、私たちは罪の赦しを受けるための道を歩んでいます。時とともに、悲しみによる苦悩は和らぎ、私たちの「心から罪〔が〕取り除〔かれ〕」、(アルマ24:10)「良心の安らぎ」※ が与えられるでしょう。
真に悔い改めたにもかかわらず安らぎを得られないように感じても、戒めを守り続けてください。主がよいと思われるときに安らぎが与えられることを私は約束します。癒しには時間もかかるのです。
※モーサヤ4:3。聖文は,この世と次の世でのわたしたちの幸せを,良心の安らぎと結びつけている。喜びの反対は良心の呵責であるというアルマの教えに注意する(アルマ29:5参照)。ほかの預言者たちは,この世の後で訪れる悪人の苦痛を,その人たちの感じる罪悪感と関連付けている(2ニーファイ9:14,46;モーサヤ2:38;3:24-25;モルモン9:5参照)。ジョセフ・スミスはこう述べている。「人は自分で自分を苦しめ,罪に定める。だからこそ,彼らは火と硫黄の燃える池に入ると言われるのである。人の思いにある失意という苦しみは,火と硫黄の燃える池と同じくらい激しいものである。」(History of the Church ,第6巻,314)
