ルカ2:48-49
両親はこれを見て驚き、そして母が彼に言った、「どうしてこんな事をしてくれたのです。ごらんなさい、おとう様もわたしも心配して、あなたを捜していたのです」。 するとイエスは言われた、「どうしてお捜しになったのですか。わたしが自分の父の家にいるはずのことを、ご存じなかったのですか」。
「奉献された生活についての熟考」2010年10月、D・トッド・クリストファーソン、十二使徒定員会
奉献された生活とは,労働の生活です。イエスは,生涯の早い時期から,御父の業に携わられました(ルカ 2:48-49参照)。神御自身は,人の不死不滅と永遠の命をもたらす業によって栄光をお受けになります(モーセ 1:39参照)。わたしたちが神の業に参加したいと願うのは当然のことですが,それと同時に,正直な労働は皆神の業だということを認識する必要があります。トーマス・カーライルはこう述べました。「真の労働は皆神聖である。あらゆる真の労働には,それがほんの手仕事だとしても,何か神聖なものがある。労働のすそ野は大地に広がり,その頂点は天にまで及ぶ。」(トーマス・カーライルPast and Present(1843年),251)
神はこの世の生涯を,常に努力しなければならないように造られました。預言者ジョセフ・スミスの飾らない言葉を思い出します。「わたしたちは……絶え間なく働くことで不自由のない生活をすることができた。」(ジョセフ・スミス―歴史 1:55)労働は,生活を支え,豊かにします。この死すべき世にあって,失意や悲劇を乗り越える力です。懸命に働いて得られる達成感は,自尊心になります。労働により人格が築かれ,磨かれ,美が創造されます。労働はや神に奉仕する手段です。奉献された生活は労働にあふれ,繰り返しも多く,目立つことも感謝されることもないかもしれませんが,そのような労働には常に,成長,秩序,支えとなること,高めること,仕えること,志を抱くことが伴います。
