ようこそのお運びで。

激痛・病の不安・耳鳴りの苦痛・夫と死別した喪失感・天涯孤独のひとりぼっちの寂しさなどに、いつも負けそうになりながら、山積した問題に非力で涙目で向かい合っています。

そういえば、今週水曜に初めてワクチン接種です。運の悪さに絶大な自信を持っているので、不安しかありません。独り暮らしで誰の助けもない中、途轍もない副反応に苦しむことにきっとなる。木曜日に生きているだろうか、本気で憂えている。

拝金主義で情のない居住地への嫌悪感から京都に一ヶ月避難滞在中に、「蓮」の写真をひたすら撮りました。人の殆どいない早朝に撮影に出かけるのです。

「京都・法金剛院(花園)の蓮・睡蓮・桔梗」(マン防より前、七月に撮影)

法金剛院はもと平安初期の貴族・藤原夏野の邸宅。鳥羽天皇中宮の待賢門院(藤原璋子)が再興。待賢門院は西行の憧れの人だったとも言われる絶世の美女。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

お題

「恋ひわたる 身はそれなれど 玉かづら いかなる筋を 尋ね来つらむ」

      (源氏物語・玉鬘)玉鬘をめぐる歌④

 

◎源氏は玉鬘と対面する。前回、和歌を通じて知性や人間性を探ったのは、いわば書類審査であり、今回の対面は、面接試験に相当する。

 

 ◇ほのかな燈台の灯をともし、隔ての几帳を少し押しやって、源氏は玉鬘の姿を見た。

 

「わりなく恥づかしければ、側(そば)みておはする様体など、いとめやすく見ゆれば、うれしくて、」

・・・(玉鬘は)たまらなく恥ずかしいので、横を向いていらっしゃるが、その姿かたちなど、たいそう好ましく見えるので、嬉しくて、・・・

 

玉鬘の容姿は「めやすし」と評価された。「めやすし」は「目安し」であり、目で見て安心・安堵できるような感じの良さ、無難な様子を表す。細部までまじまじと観察したわけではないので、全体的な印象だが、難が無く、好感が持て、源氏は嬉しく思っている。

 

 

                        「燈台 (風俗博物館)」

 

 

 

 ◇「長年、行方が分からず、いつも心配で嘆いていたあなたを見るにつけ、夢のようで、あなたの母君のことも思い出され、こらえきれません」と言い、源氏は涙を拭う。押し黙る玉鬘に対し、実父のようにふるまう源氏は、「こんな長くお会いしない親子の例はありません。積もるお話をしたく存じます」と詰め寄る。玉鬘は、恥ずかしがしがるが、返答する。

 

「『脚立たず沈みそめはべりにける後、何ごともあるかなきかになむ』とほのかに聞こえたまふ声ぞ、昔人にいとよくおぼえて若びたりける。ほほ笑みて、『沈みたまへりけるを、あはれとも、今は、また誰かは』とて、心ばへ言ふかひなくはあらぬ御答(いら)へと思す。」

・・・「脚も立たない幼い頃、母に先立たれて、田舎で暮らしはじめましたのち、何事も頼りないありさまで」とほのかに申し上げなさる声が昔の母君によく似ていて、おっとりとしている。源氏は微笑んで、「田舎でお暮らしになっていたのを、かわいそうにと、今は私のほかに誰が思いましょうか」と仰って、たしなみのほどは満足のゆく姫君の御返事だとお思いになる。・・・

 

玉鬘の「脚立たず沈みそめはべりにける」という言葉は、『日本紀竟宴和歌』の「66 かぞいろはあはれとみずやひるのこはみとせになりぬあしたたずして(大江朝綱)」(父母はかわいそうだと思わなかったのか、蛭の子は三歳になった。脚が立たぬまま)を踏まえている。『日本紀竟宴和歌』とは、平安前期に行われた『日本書紀』購読会で購読終了後の宴会で詠まれた題詠歌のことで、『日本書紀』に登場する神や天皇や有力家臣が題材となっている。「かぞいろは・・」は、イザナミの生んだ蛭の子が三歳でも脚が立たなかったため船に乗せて流されたとする記事に拠る。玉鬘は三歳で母に先立たれ、四歳の時、船に乗って筑紫へ旅立ったため、自分と蛭の子を重ねた。教養を必要とする返答であり、その声も夕顔に似ていたので、源氏は玉鬘に非常に満足したのだった。高い合格点である。

 

                  国立国会図書館所蔵先「水蛭子神」(Kiryu Rotaro

 

 

◎玉鬘に満足した源氏は、紫の上にも玉鬘のことを「さる山がつの中に年経たれば、いかにいとほしげならんと侮(あなづ)りしを、かへりて心恥づかしきまでなむ見ゆる。」(あのような下賤の田舎者の中に長年住んでいたので、どんなにおかわいそうなご様子だろうと見くびっていたのですが、かえてこちらが気がひけるほどに見えます。)と語る。そして、このような姫君がいると風流貴公子たちに知らせて、夢中にさせ、心を乱してみたいという思いがあることを打ち明け、紫の上に「けしからず」(いけないお方ですこと)とたしなめられたりもする。その後、源氏は歌を書き付け、「あはれ」(ああ)と深いため息をつき、歌を口ずさむ。その歌を聞き、紫の上は、「この姫君は本当に深く愛された方の形見なのだろう」と思うのであるが、その歌とは、このような歌である。

 

☆「恋ひわたる 身はそれなれど 玉かづら いかなる筋を 尋ね来つらむ」

・・・亡き夕顔のことを恋い慕い続ける自分は昔のままだが、この娘はどのような筋を辿って、私のもとに尋ね来たのだろう。・・・

 

この歌について、三点、確認しておきたい。

 

①「玉かづら」には「美しいかつら・かもじ」、「玉を緒で貫いて作った髪飾り」、「つる性の植物の美称」などの意味がある。

 

・新潮・古典集成は「蔓(かもじ)」の美称で、「筋」(毛筋)は「玉かづら」の縁語とする。

小学館・全集は「かづら」は「つる草や花などを、髪の飾りとしたもので、『筋』の縁語」で「玉」は美称とする。どちらの意味なのだろうか?

 

・『源氏物語』では「玉鬘」の巻より前に、「蓬生」の巻に「玉かづら」が「筋」とともに詠まれている。

末摘花が、長年、自分に仕えてくれた乳母子の侍従と別れる場面。

 

                   「源氏物語六百仙・ぬばたまの髪」

 

 

「蓬生」の巻より

 

「形見に添へたまふべき身馴れ衣もしほなれたれば、年経ぬるしるし見せたまふべきものなくて、わが御髪(みぐし)の落ちたりけるを取り集めて、鬘(かづら)にしたまへるが、九尺余ばかりにていときよらなるを、をかしげなる箱に入れて、昔の薫衣香(くのえかう)のいとかうばしき一壺具してたまふ。」

・・・形見に添えなさるべき着古した衣も垢じみているので、長年の奉公に報いるべき記念の品もなくて、ご自分のお髪の抜け落ちたのを取り集めて、鬘になさっていたのが、九尺余りの長さで、たいそうきれいなのを、風流な箱に入れて、昔の薫衣香(衣服たきしめる香)のたいへん香ばしいのを一壷添えてお与えになる。・・・

 

末摘花の歌
「☆ 絶ゆまじき 筋を頼みし 玉かづら 思ひのほかに かけ離れぬる」

・・・離れることなどあるはずがない関係を信頼していました玉かずら(あなた)なのに、思いがけなく遠くへ行ってしまうのですね。・・・

 

侍従の返歌

「☆玉かづら 絶えてもやまじ 行く道の  手向の神も かけて誓はむ」

・・・玉かずら絶えるように、あなたとお別れしましてもお見捨て申しません。そのことを行く道々の道祖神に命をかけてお誓いしましょう。・・・

 

・上の「蓬生」の例では、「玉かづら」は末摘花の長い髪を取り集めて作った「かもじの美称」であるが、源氏の歌と同様に「筋」が詠み込まれる。「玉かづら」の用例を調べると、「玉鬘」の巻以前に「玉かづら」「筋」を同時に詠み込む歌は、この「蓬生」の歌のみであり、源氏の詠んだ「玉かづら」は「かもじの美称」と解すのがよいと判断する。

 

 

「かもじ」「京都・風俗博物館」のブログ記事一覧(3ページ目)-晴れのち平安 (goo.ne.jp)

 

 

②諸注釈にある通り、源氏のこの歌は『後撰集』の源善の歌に拠っている。

 

『後撰集』より  

「       中将にて内にさぶらひける時、あひ知りたりける女蔵人の曹司に壺やなぐひ・老懸を

       宿し置きて侍りけるを、にはかに事ありて、遠き所にまかり侍りけり。この女のもとよ

       り、この老懸をおこせて、あはれなる事など言ひて侍りける返事に   源善朝臣

☆1253 いづくとて 尋ね来つらん 玉かづら 我は昔の 我ならなくに」

・・・・・・・近衛中将(武官)として宮中にお仕えしていた時、知りあっていた女蔵人(下級女官)の部屋

     に、壺箙や老懸(武官の正装に必要なもの)を預けておきましたが、急な出来事(菅原道真の

     事件に連座して出雲に左遷)があって、遠いところへ左遷されました。この女のもとから、この

     老懸をよこして、しみじみとした別離の挨拶などを言いました返事に  源善朝臣

☆1253 ここをどこだと思って尋ねて来たのだろうか、老懸は。私は近衛中将だった昔の私ではないのに。

    

 

                           「コトバンク」

 

 

髪飾りの意味の「玉かづら」は懸けるものであるため、ここでは「老懸」を「玉かづら」と表現していている。源氏の歌の「玉かづら いかなる筋を 尋ね来つらむ」は、この源善の歌の「いづくとて 尋ね来つらん 玉かづら」と表現が共通しており、踏まえていることは確実。

また、源氏の歌の「恋ひわたる 身はそれなれど」は、源善が「我は昔の 我ならなくに」と「自分は近衛中将だった昔の自分と異なる」と詠むのに対し、「自分は昔のままだ」と詠んでおり、相違点が鮮明になっていて、ここにこそ源氏の主張がある。つまり、「夕顔を恋しく思い続ける自分は、あの頃と気持ちが変わっていない」ことを強く印象づける歌になってる。

 

源氏は紫の上に、この姫君で貴公子たちの心を乱したいと語り、実際に、そういう心はあり、この後、実践もするのだが、深く愛した女性の子の「名残」として心から大事にする気持ちがあったことが、この歌を踏まえつつも「我は昔の 我ならなくに」を「恋ひわたる 身はそれなれど」に変えたことに如実に表れていると思う。

 

 

                     「源氏物語六百仙・心をそそる趣」

 


③この姫君の「筋」の比喩は、当初、「三稜草の葉の筋」だった(前回の記事参照)のが、ここでは「玉鬘の毛の筋」となっている。「玉」は美称であり、泥の中の地味な三稜草に比べ、比喩の格が上がっている。この比喩を用いられた時点で、玉鬘は六条院の姫君として正しく認められたと言ってよいのではないだろうか。

 

 

                         「六条院・wiki」

 

 

◎この姫君が「玉鬘」と通称され、この巻が「玉鬘」であるのは、この歌ゆえであるということは言うまでもない。                                                 

 

 

◎ところで、玉鬘の容姿について源氏は「めやすし」としか発言していないが、源氏の抱いた印象をもう少し具体的に知ることのできる記述がある。その年に暮れに、源氏は新春の晴れ着を夫人たちに贈るのだが、玉鬘用に選んだ衣装は「山吹の花の細長」だった。「山吹」とは表が薄朽葉で裏が黄の山吹襲のこと。「細長」は女性の普段着。

 

 

襲色目botさん

 

 

これを見た紫の上は玉鬘の容貌を、

「内大臣(うちのおとど)のはなやかにあなきよげと見えながら、なまめかしう見えたる方のまじらぬに似たるなめり」

・・・実の父君の内大臣[頭中将]が華やかで、何とお綺麗だとは見えながらも、優美に見える感じが無いのと似ているのだろう・・・

と、推し量っている。読者は、この紫の上の推量で、玉鬘のおおまかな容貌を知るのである。
                                                              続く
 

 

 

 

おまけ

 

医大プロジェクトチームの研究に参加して下さった被験者の皆様のご尽力と、

ネンタ医師の困っている患者様を何とかして救いたいという熱意と、

被験者様に集まっていただこうとして開設したこの拙ブログの存在も少しばかり貢献して実現した論文

 

国際科学雑誌 「PLOS ONE 」の論文

「Brain Regions Responsible for Tinnitus Distress and Loudness: A Resting-State fMRI Study」

https://journals.plos.org/plosone/article?id=10.1371/journal.pone.0067778

 

二報目

https://journals.plos.org/plosone/article?id=10.1371/journal.pone.0137291

 

 

  sofashiroihana