ようこそのお運びで。PCの故障・猫の病気や知人の不幸で落ち込み体調不良・勉強会のレジュメ作りなどで、ブログを完全放置しておりました。また活動を再開しますので宜しくお願い致します。ブログを開始した頃、初夏の黄昏時の「青の時間」の魅力について書いたことがあります。少し物悲しい闇の気配を秘めた青色に包まれ、涼しい風がさっと吹き渡るような情緒深い時間帯。『源氏物語』「夕顔」巻では、この青い時間帯に咲く白い夕顔の花が描かれる。今回は、この「夕顔」巻の有名な歌について愚見をいささか述べます。拙写真は、ご近所の花など。

 

「雨中の槿」

 

 

 

「夕方の槿」

 

「常磐露草」

 

「アベリアと黒蝶」

 

「千日紅」

 

 

◎黄昏時の夕闇に浮かび上がる白い花


「夕顔」巻冒頭部、源氏が六条のあたりの貴婦人にお忍びで通っていた頃、道の途中の五条にある乳母の家に見舞に訪れる。その隣の粗末な家に咲く白い花。「切懸(きりかけ)だつ物に、いと青やかなる葛(かづら)の心地よげに這ひかかれるに、白き花ぞ、おのれひとり笑みの眉ひらけたる」(横板を羽重ねに張った板塀のようなところに、たいそう青々とした蔓草が気持ちよさそうに這いかかっているが、そこに白い花が、自分ひとりだけ楽しそうに笑顔を見せている)。


 〔以下の画像は借り物〕

 

源氏は独りごつ。「をちかた人にもの申す」(向こうにいる方にお尋ね申す)。これは「うちわたす遠方人(をちかたびと)にもの申すわれ そのそこに白く咲けるは何の花ぞも」という旋頭歌の一部。源氏の言いたいことは、この旋頭歌の口には出さなかった部分にある。つまり、「そのそこに白く咲けるは何の花ぞも」と、花の名を尋ねたのだ。源氏に仕える随身は、それと察し、「夕顔と申しはべる」と花の名を答える。源氏は「口惜しの花の契りや」(みすぼらしい軒先に咲くとは、悲運な花だことよ)と言い、「一房折りてまゐれ」と随身に命じる。

 

随身が家の門に入り、花を折ると、戸口にこぎれいな女童が出てきて手招きをする。香を深くたきしめてある白い扇を「これに置きてまゐらせよ。枝も情なげなめる花を枝も風情のなさそうな花ですので)」と言って差し出す。白い扇に書かれていたのが、この歌だった。
☆「心あてに それかとぞ見る 白露の 光そへたる 夕顔の花」

 

 

 


◎「心あてに それかとぞ見る 白露の 光そへたる 夕顔の花」について


高校生が使用する『旺文社 全訳古語辞典』には、「あて推量であの方(=光源氏)かと見ることだ。白露が光を添えた(=一段と美しくなった)夕顔の花(のような美しい顔)を」という訳が載っており、授業でもほぼこのように教えてきた。しかし、この歌には問題が色々とある。源氏を卑しい花に例えるはずがない、内気な夕顔から積極的に歌を源氏に贈るはずがない、実は頭中将と誤認して贈った歌ではないか、夕顔でなく女房の代作ではないかなど。


◇主な現代の注釈書の解釈

 

・新潮・集成

「あて推量ながら、源氏の君かと存じます。白露の光にひとしお美しい夕顔の花、光り輝く夕方のお顔は。」

「夕顔」で人の顔を暗にさし、

「光そへたる」の「光」で「光る君」と察していることを匂わせている。

「心あてに折らばや折らむ初霜のおきまどはせる白菊の花」(『古今集』巻五秋下、凡河内躬恒)の歌の調べ、形を写して詠まれている。

 →「それ」=源氏 「白露の光」=白露の光 「夕顔の花」=源氏の夕方の顔

 

・岩波・旧体系
「当て推量で、源氏の君かとどうも、私は見ます、白露が光沢を添えて居る夕顔の花の如き、夕方の顔の美しい方を」

「それ」は、その人、即ち源氏を指し、

「夕顔」には人の「顔」を掛けてある。
 →「それ」=源氏 「白露の光」=白露の光 「夕顔の花」=源氏の夕方の顔

 

・岩波・新体系
「推量ながらあなたさま(源氏の君)かと見るよ、白露の光をつけ加えている夕顔の花を」

花盗っ人に対する挨拶歌であろう。

先の源氏の言「をちかた人に物申」への受け答えでもある。

のちに「露の光やいかに」とあるのによれば、「白露が光を添えている」ではなかろう。

「光」は光源氏であることを込めて言う言い方。源氏は車の窓から顔を出して女に見られたはずである。
 →「それ」=源氏 「白露の光」=白露の光 「夕顔の花」=源氏の夕方の顔

 

・小学館・新全集
「あて推量にあのお方かしらと見当をつけております。白露の美しさで、こちらの夕顔の花もいっそう美しくなります」

「白露の光」は高貴な光源氏をさす。
「夕顔の花」は、女の隠喩。

高貴な男性に所望される光栄に浴した夕顔の花(私ども)は、あて推量に、あなた様をあの方か、それともどなたかと思いめぐらしています、の意。
 →「それ」=源氏 「白露の光」=源氏に所望される光栄 「夕顔の花」=女

 

・黒須重彦氏『源氏物語私論』
「そこにいらっしゃっている方は、もしやあなた(頭中将)さまではありませんか。もしそうなら、このようにむさくるしい五条あたりに、あなたさまのように高貴な方の御光栄をいただいて、いやしき花の咲くこのあたりも光輝くようでございます。うれしゅうございます」
 →「それ」=頭中将 「白露の光」=頭中将が訪れる光栄 「夕顔の花」=女

 

・清水婦久子氏http://www.hikariyugao.com/sinyaku4.html 
「おそらくその花だと思います、白露が光を添えて輝いて見わけがたくなった夕顔の花を
   ――あなた様の美しい白い光で覆われて白い花が見分けにいのですが、おそらく夕顔でしょう」
→「それ」=夕顔の花 「白露の光」源氏の美しい白い光 「夕顔の花」=夕顔の花

 

 

新井幸子氏

 

 

◇私見

 

①「それ」とは何を指すか。


・多くは源氏、他に頭中将、夕顔の花とするものがあるが、和歌の伝統的詠み方に拠り、「夕顔の花」とする清水氏の論は説得力があると思う。上記のサイトから引用する。
・・・よく似た歌「心あてに折らばや折らむ初霜の置きまどはせる白菊の花」(古今集、秋下、凡河内躬恒)はじめ、「わが背子に見せむと思ひし梅の花それとも見えず雪のふれれば」(万葉集、巻八 後撰集、春上、よみ人しらず)、「梅の花それとも見えず久方のあまぎる雪のなべてふれれば」(古今集仮名序 古今集、冬、よみ人しらず 拾遺集、春、柿本人麻呂)、「月夜にはそれとも見えず梅の花香をたづねてぞしるべかりける」(古今集、春上、凡河内躬恒)、「心あてに見ばこそわかめ白雪のいづれか花のちるにたがへる」(後撰集、冬、よみ人しらず)などの例から、この歌は、白い水滴(初霜・白雪・白露)に覆われて見定めにくくなった白い花(白菊・白梅・夕顔)を「心あてに」その花だと見ようとする意味であることが明らか。・・・

 

・確認しておくと、「白露」によって白い夕顔が見定めにくくなっているとご説明されているが、厳密に言うと「白露のもたらす白い光」によって白い夕顔が見定めにくくなっているということになろうか。訳の方は「白い光で覆われて」とされている。

 

白い光によって白い花が見定めにくくなっている、白い光と白い花の区別がつかない、という発想の先行歌が存在しているので挙げておく。

 

「月夜には それとも見えず 梅花 香をたづねてぞ しるべかりける」
・・・月夜には、白い光にまぎれて梅の花と見定めることができない。梅の花は、その香りをさがしてはじめて、所在を知ることができるのであったよ。(『古今集』40 凡河内躬恒)
→「白い月の光」によって「白い梅の花」が見定めにくいと言っている。

 

「我がやどの 梅の初花 昼は雪 夜は月とも 見えまがふかな」
・・・私の家に今年はじめて咲いた梅の花は、その白さのため、昼は雪、夜は月と見まがうことであるよ。(『後撰集』26 よみ人しらず)
→「白い梅の花」と「白い月光」「白い雪」が区別がつかないほどだと言っている。

 

「時わかず 月か雪かと 見るまでに かきねのままに 咲ける卯の花」
・・・時節がわからず、秋の月か、冬の雪かと見るほどに、垣根にそって白く咲いている卯の花であることよ。(『後撰集』155 よみ人しらず)ず)・・・
→「白い月光」「白い雪」と「白い卯の花」が区別がつかないほどだと言っている。

 

 

 


②「白露の光」とは何か。

 

「それ」とは何を指すかで、清水氏の説に賛同したので、「白露の光」についての氏のお考えを参考にして考察する。

 

・「白露の光そへたる」の部分を「白露が光を添えて輝いて」「あなた様の美しい白い光で覆われて」と訳されているが、「の」は主格なのか、それとも連体修飾格なのか?前者の訳だと主格に取れるが、後者では主格とも思えない。岩波・新体系の注に記されているように、『源氏物語』では、このあと、源氏の夕顔への「露の光やいかに」という問いかけの言葉があり、連体修飾格であろう。

 

・氏は、同サイトで「源氏の『光』を讃え、花に情けをかけて下さったことに感謝しつつ花の名を答えた」と言われているが、当該歌の「露」は「あはれ」すなわち「愛情」を示すと考えられる。なぜなら、『源氏物語』「帚木」に、まだ源氏と知り合う前の夕顔が頭中将に贈った次のような歌があるからだ。詳細は過去記事→https://ameblo.jp/cfaon000/entry-12474308120.html
「山がつの 垣ほ荒るとも をりをりに あはれはかけよ 撫子の露」

・・・山に住む身分の低い者の家の垣根が荒れたとしてもかまいません。この私のことも、どうなろうとかまいません。ですが、折々に、この子に愛情はかけて下さい。撫子に露が置くように。・・・
「撫子」は、「撫でし子」の連想から、女と頭中将の間に生まれた「女児」を指す。「露」とは「撫子」に置くもので、「女児」にかける「あはれ」すなわち「愛情」の例えである。
当該歌の「露」も同様に「愛情」と解釈できる。源氏が粗末な夕顔の花に関心を持って、その名を尋ねたのは、夕顔の花に対する「愛情」に他ならない。「白露の光」は、「愛情を受ける輝かしさ・光栄」のことと思われる。

 

「光」は、「桐壺」で高麗人がほめてつけたという「光る君」という名、「帚木」で世間で仰々しく語られているという「光る源氏」という呼称を持つ源氏のことを暗示している。それは、当該歌を贈られた源氏に「さして聞こえかかれる心のにくからず」(名指して歌を詠みかけてきた気持ちが、好ましくて)と自分が名指しされたという認識があったという事実、歌を贈った女側の内情を「いとしるく思ひあてられたまへる御側目を見すぐさでさしおどろかしける」(まことにはっきりと源氏だと推察されなさった御横顔を、そのまま見過ごすことができないで、歌を詠みかけた)と記し、源氏と認識して歌を贈っていたという事実から推測される。

 

・まとめると、「白露の光」は、「源氏の愛情を受けることの光栄」と訳すのが妥当か?

 

 

 

 

③「夕顔の花」とは何か。

 

「夕顔の花」そのもの。清水氏は同サイトで「夕顔は、随身と童が言う通り『かうあやしき垣根に咲く』『枝も情けなげなめる』花であり、高貴な光源氏の顔に見立てたものではなく、女は卑しい花を自身の比喩として詠んだのである。」と指摘される。


・特に童が「枝も情けなげなめる」と言ったのは重要だと思う。童の言葉は、当該歌が書かれていた白い扇に夕顔の花を載せて随身に渡した時に発せられたものである。童は歌くらい解読できたであろうが、その歌の「夕顔の花」が源氏の比喩であったなら、夕顔の花は風情が無いという発言を添えるはずがないと考える。


・女主人が、夕顔の花を自身の比喩としたと断ずるのはどうか。源氏は「夕顔」巻の冒頭で、「をかしき額つきの透影あまた見えてのぞく」この家に興味を抱いている。「あながちに丈高き心地ぞする」ゆえだけではなく、女性たちの影が多く見えることから女主人の存在が暗示され、その女性への関心も根底にあったことだろう。「帚木」巻で、高貴とは言い難い階級の女性への好奇心を惹起されていた源氏である。「をちかた人にもの申す」と独りごちた時も、「一枝折りてまゐれ」と命じた時も、家の女主人を意識する気持ちも内在していたと見る。が、源氏は女への興味を表に出してはいない。この段階で女主人が「源氏が自分に情けをかけてくれた」と詠むのは積極的すぎないか。それこそ、「世の人に似ずものづつみをしたまひて」と語られる夕顔の内気な性格にそぐわないとも思える。

 

 

「をかしき額つきの透影」

 

 

④当該歌はなぜ詠まれたか。

 

・清水氏は、同サイトで「この歌は、源氏の問い『をちかた人にもの申す』に対して、『おそらく夕顔の花です』と答えた歌である。女は、花のそばの『遠方人』として、源氏の『光』を讃え、花に情けをかけて下さったことに感謝しつつ花の名を答えた。」「(夕顔は)伝統的な和歌をよく知っていて的確な歌を詠むことのできた教養ある女性であった。たとえ内気な性格の夕顔でも、貴族としての教育を受けた女性なら、貴人の問いに答えるのが礼儀というものだ。」と述べられている。


・つまり礼儀として源氏の独りごちの問いかけに歌で返事をしたということだが、確かにその通りだと思う。但し、返事をした本音は、②でも引用した女主人側の「まだ見ぬ御さまなりけれど、いとしるく思ひあてられたまへる御側目を見すぐさでさしおどろかしける」(まだ見たことのないお姿ではあったが、まことにはっきりと源氏だと推察されなさった御横顔を、そのまま見過ごすことができないで、歌を詠みかけた)ということであったのではないか。源氏の姿を見たことはないが、その美しい横顔はどう見ても明らかに源氏に違いない、源氏なら、そのまま見過ごすことはできない、だから歌を詠みかけたというのである。源氏にどうしても声をかけたかったのだ。折よく、源氏は「をちかた人にもの申す」と口ずさんでいた。その本意は「そのそこに白く咲けるは何の花ぞも」という問いかけだ。それに返事をする形を取れば、出過ぎた行動にもならず、むしろ風雅を知る行動、礼儀をわきまえた丁重な行動となる。そこで礼儀にかなった返事という形を取ったが、、本音では、どうしても源氏に声をかけたいという心づもりがあったのではないだろうか。

 

・また、後に夕顔は、当該歌を踏まえて「光ありと 見し夕顔の 上露は たそかれ時の そらめなりけり」という歌を詠んでいるので、当該歌を詠んだのは夕顔自身であろうが、「さしおどろかしける」後に源氏の返事が来た時に、女主人側の反応が「『いかに聞こえむ』など言ひしろふべかめれど」と「言ひしろふ」(互いに言い合う)という語を用いて表現されているので、夕顔に仕える女房たちも、当該歌を源氏に贈る時に意見を言ったかもしれない。礼儀にかなう行動とはいえ、源氏と知って見過ごせない気持ちがあったとはいえ、内気な夕顔が源氏に歌を贈るには勇気が必要だったろう。女房たちは夕顔の後押しをしたのかもしれない

 

 

 


◇以上の考察を踏まえ、一応、次のように解釈しました。

 

「あて推量ですが、夕顔の花であると存じます。白露の白い光を添えて一面真っ白になり、見定めがたくなっている夕顔の花。そして、その白い光は、光源氏様の御目を引き、ご愛情を受けた光栄の光です。」

 

 

◎源氏の返歌「寄りてこそ それかとも見め たそかれに ほのぼの見つる 花の夕顔」

 

返歌にも問題は色々ありますが、贈歌と同様、「それ」を「夕顔の花」と取り、「たそかれ」の本来の意味「誰そ彼」(誰か、あれは)を生かして、こう解釈しておきます。

 

「近寄って初めて夕顔の花かどうか判別がつくことでしょう。誰と区別もできない黄昏時に、ぼんやりとその夕方の顔を見ただけの花ですので。」

 

源氏は相手の女に「あなたに近づきたい」と意志表示をしたのでしょう。

 

 

 

 

http://genjimonogatari.o.oo7.jp/04yugaoa.html

 

 

と、まあ、愚見を述べた次第です。ご容赦下さい。多々誤りがあると思うので、ご指摘くださると幸いです。

 

 

    

おまけ
 
医大プロジェクトチームの研究に参加して下さった被験者の皆様のご尽力と、
ネンタ医師の困っている患者様を何とかして救いたいという熱意と、
被験者様に集まっていただこうとして開設したこの拙ブログの存在も少しばかり貢献して実現した、

 

国際科学雑誌 「PLOS ONE 」の論文
「Brain Regions Responsible for Tinnitus Distress and Loudness: A Resting-State fMRI Study」
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  sofashiroihana