ようこそのお運びで。なおかつ、遅れましたが、明けましておめでとうございます。

相変わらず体調不安定で不安発作頻発ですが、年初には京都で大学の友人と勉強会を持ちました。その後、短時間でしたが、大原まで行ってまいりました。今回は、寂光院の拙写真と建礼門院右京大夫集・平家物語灌頂巻の関連箇所を記事と致します。

 

「建礼門院の御陵」

 

「時雨の雫を帯びた山茶花」

 

「寂光院の入り口」

 

 

「石段を上ると、山門。すぐに庵室が見える」

 

お題

・・・大原寂光院+寂光院の建礼門院を訪ねる(建礼門院右京大夫集・平家物語灌頂巻)・・・

 

◎『建礼門院右京大夫集』に作者が大原に建礼門院を訪ねたことが語られています。

作者については、以下のところで過去記事をまとめておりますので、参照して下さいませ。

https://ameblo.jp/cfaon000/entry-12539681071.html

「建礼門院」とは「平徳子」。清盛の二女で、高倉天皇の中宮。安徳天皇の母です。 壇の浦で入水したが、救助され、余生を大原寂光院で過ごし、仏道に精進しました。波乱に富んだ、悲劇的な人生を送った人物。

そして、作者「右京大夫」は、若い頃、この「建礼門院」にお仕えした女房です。彼女の恋い焦がれた想い人は「平資盛」。壇の浦で亡くなりました。

 

「壇ノ浦の戦い」

◎女院(建礼門院)が大原にいらっしゃると知った作者は、矢も楯もたまらず、自分の深い思いを道しるべとしてご訪問を強行します。だんだんお住まいが近づくにつれ、山道の気配に涙が溢れ、いざ庵室を目にすると、その粗末な様子に目を当てることもできませんでした。昔の栄華を尽くした御様子を知らない者でも、このご生活のさまを拝見すれば、とても並みの生活とは思えないような酷い有様です。まして、昔の御様子を知っている者には、これが夢なのか現実なのか判別がつかないくらいでした。

 

「秋深き山颪(やまおろし)、近き梢にひびきあひて、筧(かけひ)の水のおとづれ、鹿の声、虫の音、いづくものことなれど、ためしなきかなしさなり。都は春の錦をたちかさねて、さぶらひし人人六十余人ありしかど、見忘るるさまにおとろへたる墨染(すみぞめ)の姿して、わずかに三四人ばかりぞさぶらはるる。」

・・・秋も深く、山から吹きおろす風が、近くの梢に吹いて音を立て、筧の水の音、鹿の声、虫の鳴く声、(秋の山里では)どこでも同じだが、(私には)経験したことがないような悲しさである。
都では、春の錦のような美しい衣裳を着重ねて、お側にお仕えした女房が、六十人以上いたけれど、見違えるほどにやつれた墨染の尼姿で、わずかに三四人位が、お仕えしておられる。・・・
 
 
◎対面した作者も、お側にいる女房達も「それにしても、まあ」と口に出しただけで、むせび泣く涙で一杯になって、言葉も続けられません。
 
☆「今や夢 昔や夢と まよはれて いかに思へど うつつとぞなき」
・・・今が夢の中なのか、それとも昔が夢だったのか、思い迷ってしまい、どう考えても、とても現実のこととは思われません。・・・
 
→美しい衣裳をまとって華やかな宮中生活を送っていた昔、
出家して墨染の衣に身を包んで貧しい生活を送っている今、
あまりにも隔絶した二つの時間、作者には、どちらが現実なのか判然としない。
 
 
☆「あふぎみし むかしの雲の うへの月 かかる深山の 影ぞかなしき」
・・・その昔、宮中で、まぶしくお見上げした中宮様が、こんな寂しい山奥にお住まいのお姿が痛ましくて、悲しいことです。・・・
 
→かつては「雲の上の月」としてまぶしい存在であった建礼門院、それが、今では「山奥の月の影」のように寂しい生活を送っていらっしゃる。
なんて悲しい運命なのだろう。
 
「大原御幸・絵:下村観山」
                                                 
  
 
◎源平の合戦など起こる前、高倉天皇がまだご在位の頃、中宮様でいらした建礼門院様のもとに、帝がおいでになられた時、お二人の御様子を遠くから眺めて作者はこう思ったことがありました。
 
☆「雲のうへに かかる月日の ひかりみる 身のちぎりさへ 嬉しとぞ思ふ」
・・・まるで雲の上の空にかかる日と月のような帝と中宮様、宮中でこのようなお二人のご立派なお姿を拝することのできる我が身の宿縁までもが嬉しく存じます。・・・
 
→建礼門院は、かつては、この歌に詠んだように「雲の上の月」のような眩しい存在の中宮様でいらしたのに、変わり果ててしまわれた。

 

 
このような建礼門院のお姿を拝見しても、それでも都に帰る作者には、自分の心がうとましく情けなく思われ、自らも出家することを願うのでした。
 
☆「山深く とどめおきつる わが心 やがてすむべき しるべとをなれ」
・・・大原の山中深くに残して来た我が心よ。そのまま私が出家する縁となっておくれ。・・・
 
 

◎『平家物語』「灌頂の巻」には、初夏の頃、後白河法皇が建礼門院を訪ねる「大原御幸」の場面があります。(日記的な家集である『建礼門院右京大夫集』とは異なり、『平家物語』には虚構もあり)そこでは、寂光院はこのように描かれています。

 

「大原御幸・絵:下村観山」(以下も)

 

「西の山のふもとに、一宇の御堂あり。即ち寂光院是なり。ふるう作りなせる前水、木立、よしある様の所なり。

  甍やぶれては霧不断の香をたき

  枢おちては月常住の燈をかかぐ」

・・・西の山の麓に、一棟の御堂がある。これが寂光院である。古めかしく作られた庭の池や木立が由緒ありげな所だ。

 屋根瓦が壊れて、御堂の中に入り込む霧は、絶え間なくたき続けるお香のようであり、

 扉が外れて、御堂の中に差しこむ月光は、まるで常夜灯の明りのようである。・・・

 

 

「樹齢数百年の千年姫小松」

 

庭にある池の中島には松が生え、そこに藤の花が薄紫に咲いてからんでいます。遅桜が青葉に交じって咲き、岸辺には山吹が咲き乱れ、法皇を迎えるようにほととぎすが一声鳴きます。この景色を見て法皇が詠んだ歌

☆「池水に みぎはのさくら 散りしきて なみの花こそ さかりなりけれ」

・・・池の水面にほとりの桜の花びらが散りしいて、波の上の花が今盛りであることだ。・・・

 

「後白河法皇が汀(みぎわ)の桜を詠んだ池(千載集では鳥羽殿で詠んだ歌とされる)」

 

「さる程に上の山より、こき墨染の衣着たる尼二人、岩のかけぢをつたひつつ、おりわづらひ給ひけり。法皇是を御覧じて『あれは何者ぞ』と御尋ねあれば、老尼涙をおさへて申しけるは、『花がたみひぢにかけ、岩つつじとり具してもたせ給ひたるは、女院にてわたらせ給ひさぶらふなり。爪木に蕨折り具してさぶらふは、鳥飼の中納言伊実の娘、五条大納言邦綱卿の養子、先帝の御めのと、大納言佐』と申しもあへず泣きけり。法皇もよにあはれげにおぼしめして、御涙せきあへさせ給はず。」

・・・そうしているところに、上の山から、濃い墨染の衣を着た尼が二人、磐の崖道を伝いながら、苦労しながら下りていらっしゃった。法皇がこれを御覧になって、「あれは何者か」とお尋ねになったので、老尼(阿波の内侍)が涙を抑えて申したことには「花かごを肱にかけ、岩つつじを添えてお持ちになっているのは、女院でいらっしゃいます。薪に蕨を折り添えていますのは、鳥飼の中納言伊実の娘で、五条大納言邦綱卿の養子となり、先帝の御乳母でいらした大納言佐」と申しあげるのも終らぬうちに、泣いた。法皇も実に哀れ深いことだとお思いになって、涙を止めることがお出来にならないでいた。・・・

 

「山を下りる建礼門院と大納言佐」

 

この後、建礼門院と後白河法皇は庵室で対面し、盛衰の限りを尽くした過去・往生を待ち望む未来について、尽きることなく話すのでありました。

 

 

「庵室と、その前の枯れた楓の木」

 

「風前の灯火の楓の枯葉を、時雨の玉の雫が美しく演出していた」

 

 

                   

おまけ
 
医大プロジェクトチームの研究に参加して下さった被験者の皆様のご尽力と、
ネンタ医師の困っている患者様を何とかして救いたいという熱意と、
被験者様に集まっていただこうとして開設したこの拙ブログの存在も少しばかり貢献して実現した、
 
国際科学雑誌 「PLOS ONE 」の論文
「Brain Regions Responsible for Tinnitus Distress and Loudness: A Resting-State fMRI Study」
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       sofashiroihana