ようこそのお運びで。「猫股」の話の途中で、狐の「玉藻の前」に脱線しています。
「アップしない内に散ってしまった花々」
「多分、馬酔木」
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「シャガ」
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「水仙」
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「ムスカリ」
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          ・・お題「美福門院と、その父・藤原長実」・・・
 
「美福門院・藤原得子(なりこ)」の父・「藤原長実(ながざね)」の和歌 その1

藤原定家の母・「美福門院加賀」が若き頃、出仕した相手は、この名が示す通り、「美福門院・藤原得子(なりこ)」。加賀の母が、得子の乳母・伯耆(ほうき)であった関係で出仕したものと思われます。

得子の父は、藤原長実と言い、白河院の院政期に院の近臣として活躍しました。これは、長実の父・顕季が白河院の乳兄弟であって、院の信頼が厚く、院の近臣として権勢を誇ったことに伴うものです。
 
 
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                                                       「白河院」
 

1129年、白河院崩御。長実は、白河院の骨壺を奉持する役割を果たしました。1130年、権大納言に任ぜられています。しかし、長実は、政治手腕は芳しくなく、「未曾有無才之人昇納言」(無才の人が納言に昇る例はいまだかつて無い。)(『中右記』)と酷評もされています。また藤原伊通はこの人事に抗議して退職しています。
1133年に死去。[白河院亡き後の長実は、wikiで紹介されているような「鳥羽上皇による院近臣の入れ替え(亡くなった白河法皇側近の排除)の影響を受けて不遇であった。」とする説や「鳥羽上皇にも信任され同院別当に補された」(朝日日本歴史人物事典)という見解があります。]
 
長実が得子を儲けたのは、長実43歳、妻の方子は何と52歳の時です。高齢で産まれた得子のことが余程可愛かったものと見え、「ただ人にはえゆるさじ」(普通の身分の男とは決して結婚させない)(『今鏡』)と言い、死去する際には、「最愛の女子一人のことは片時も忘れる時はない」と言って涙を落としたそうです。(『長秋記』)
 
                    
今回は、『金葉集』から長実の万葉風の歌を二首。

『金葉集』秋部より

「ま葛(くず)はふ あだの大野(おほの)の 白露を 吹きなみだりそ 秋の初風」
・・・葛の這う阿太の大野の原に置いている白露を、吹いて散り乱さないでおくれ、秋の初風よ。・・・
 

・「野草露を帯びたり」という題で詠まれた歌。「みだりそ」の「そ」は禁止の終助詞。
・「あだの大野」(阿太の大野)とは奈良県五條市北東部、吉野川沿岸の地域。
『万葉集』に
「ま葛原 なびく秋風 吹くごとに 阿太(あだ)の大野の 萩の花散る」
とあり、「ま葛」「あだの大野」「秋風」が共通し、意識して詠んだものと思われます。長実の父・顕季も
「鶉鳴く あだの大野の 真葛原 いくよの露に むすぼれぬらん」
と「あだの大野」の「ま葛原」を詠んでおり、万葉歌の趣を漂わせています。
 

原野につる草の葛が地面や秋草にまとわりつくように生えています。その葛の葉に白露が、まるで葛を装飾する玉のように置いています。秋風が吹き始めて、その美しい露を散らさぬように願っている歌です。
 
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「しらすげの 真野の萩原 つゆながら 折りつる袖ぞ 人なとがめそ」
・・・真野の萩原で、露を置いたままの萩を折り取って濡れた袖だよ。人よ、見咎めないでおくれ。・・・
 

・「白菅の」は「真野」にかかる枕詞。「真野」は神戸市長田区東尻池町か。
・「つゆながら」の「ながら」は「~のままで」の意。・「な~そ」は「~しないでおくれ」の意の禁止表現。

・「しらすげの 真野の萩原」は、『万葉集』で「白菅の真野の榛(はり)原」とあるのを「萩原」と変えた。
『万葉集』には、「白菅の真野の榛(はり)原」という表現が多い。「榛」はハンノキの古名。
 「いざ子ども 早く大和へ 白菅の 真野の榛原 手(た)折りて行かむ」
 ・・・さあ、皆の者よ、大和へ早く行こう。真野の榛原の枝を土産に持って帰ろう。・・・
 「白菅の 真野の榛原 往(ゆ)くさ来(く)さ 君こそ見らめ 真野の榛原」
 ・・・真野の榛原を往き来するたびに、あなたは御覧になるでしょう。真野の榛原を。・・・
 「白菅の 真野の榛原 心ゆも 思はぬわれし 衣に摺(す)りつ」
 ・・・榛原を、心から思いもしない私が榛を衣に摺り染めにした。・・・
この歌も「ま葛(くず)はふ あだの大野(おほの)の・・・」と同様、万葉歌の趣で詠んでいる歌です。
 

自分の袖が濡れているのは、恋の涙のためではない、露の置いたままの萩を折ったため濡れたにすぎないのだ、だから、皆さん、あれこれ勘違いしてとやかく言わないでおくれと詠んでいます。
 
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美福門院・藤原得子(なりこ)」は妖狐「玉藻の前」のモデルとされた。
 
前々回、、室町時代の御伽草子「玉藻の前」を記事にしましたが、鳥羽院を虜にした妖狐「玉藻の前」のモデルは「美福門院・得子(なりこ)」だと言い伝えられてきました。「玉藻の前」は、「美女に化け、国王に近付いてその命を縮め、国を奪おうという魂胆」を持った狐でした。
 

なぜ、得子は「玉藻前」のモデルと言われるようになったのでしょうか?
 

理由その1

「父もなく強力な後見もなかったのに、得子は鳥羽院の寵愛を受け皇后になり、ライバルの璋子を追い出した」
父は権中納言・藤原長実(詳細は上記)。母は左大臣・源俊房の娘の方子。(俊房は1113年永久の変で失脚)。
父の長実は、白河院の院政期に近臣として仕える。1133年死去。(詳細は記事の前半で)
得子は1134年、鳥羽院から寵愛を受け、翌年、叡子内親王を出産。
1137年、暲子内親王、1139年、体仁親王を生み、鳥羽院は、生後3ヶ月の体仁親王を皇太子とする。それと同時に得子を女御とする。1141年、体仁親王が近衛天皇として即位。得子は皇后となる
かつて鳥羽院が寵愛していたのは中宮の璋子(たまこ・待賢門院)だったが、1142年、璋子の乳母子が、皇后得子を呪詛したという罪で、検非違使に拘束される。事件の黒幕という風説を流された璋子は出家に追い込まれる
 
 
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「待賢門院・璋子(たまこ)」
品良く描かれている。
西行の恋慕の相手とも。
 
 
←「美福門院・得子(なりこ)」
悪女扱いされているので、美しく描かれていない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
理由その2

「権力を得た得子は、政治に関与し、保元・平治の乱を招き、公家の政治を終わらせた」
1155年、近衛天皇、崩御。崇徳院の第一皇子・重仁親王が即位すると思われたが、重仁親王が即位して崇徳上皇の力が強くなった場合自らの立場が危うくなる得子自らの娘が崇徳上皇の寵愛から離れてしまったことをむ藤原忠通、さらに雅仁親王の乳母の夫であり権力が欲しい信西などの多くの権力者の意図が重なりあって、得子の養子の守仁親王(当時13歳)が即位することになる。が、まだ幼い守仁親王が存命の父親を飛ばして即位するのはよくないのではとの声が上がり、守仁親王が立太子するまでの中継ぎとして一旦父親である雅仁親王(鳥羽院の四男、崇徳院の同母弟)が後白河天皇として即位することになった。世間には近衛天皇の死は藤原忠実・頼長が呪詛したためという噂が流されており、頼長は失脚。
1156年、鳥羽院崩御。保元の乱勃発。得子は平清盛兄弟をも招致し、後白河天皇側を勝利に導く
 

「以下の図は再掲」
保元の乱の勝者・・・得子は勝者側
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乱後、信西は自分の息子を要職に就け、強引に政治を刷新。そのことが旧来の院の近臣らの反感を買う。
1158年、得子と信西の協議で、守仁親王(得子の養子)を二条天皇として即位させる。
1159年、平治の乱勃発。
 
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平治の乱とは、(以下はコトバンク)
 
「保元の乱に勝利した後白河天皇は、新制七か条を発し、ついで記録所を設置して天皇権力の強化を図ったが、1158年守仁(もりひと)親王(二条(にじょう)天皇)に位を譲り、院政を開始した。保元の乱後は藤原信西が宮廷を切り回してきたが、上皇の寵愛を受けた中納言(ちゅうなごん)藤原信頼(のぶより)が急速に台頭し、信西一派の排除を画策するに至った。一方、平清盛信西と結んで出世を遂げたが、低い地位にとどまって不満を抱いていた源義朝は、信頼と結んで対立した。
59年12月9日、信頼・義朝は、清盛が熊野詣(もう)でに出かけて京都を留守にしたすきをねらって兵をあげ、上皇の御所三条殿を襲撃し、信西を討とうとした。信西はいったんは難を逃れたが、南山城(やましろ)で捕らえられて殺され、上皇や天皇は幽閉された。熊野詣での途中にあった清盛は、紀伊の武士湯浅宗重(ゆあさむねしげ)や熊野別当湛快(たんかい)らの支援を得て急遽(きゅうきょ)京都に引き返し、信頼に臣従するふりをして天皇と上皇を脱出させることに成功した。
12月26日、源平両軍は内裏(だいり)や六波羅(ろくはら)付近で激突したが、源光保(みつやす)・頼政(よりまさ)らが寝返ったため、義朝は孤立し大敗を喫した。信頼は捕らえられて殺害され、東国に逃れようとした義朝も尾張(おわり)で部下の裏切りにあって殺された。この内乱は後白河院政下の近臣や武士の争いによって起こったが、乱後は源氏の勢力が一時衰退し、平氏が有力化した。こうして、平氏政権の端緒が形づくられることになった。[小山靖憲]」
 

このように、
「父もなく強力な後見もなかったのに、鳥羽院の寵愛を受け皇后になり、ライバルの璋子を追い出した」
「権力を得て、政治に関与し、保元・平治の乱を招き、公家の政治を終わらせた」と世間の人に思われた得子は、鳥羽院をたぶらかして国を乱れさせた悪女だというイメージが定着していったのでしょう。
 
 

この「玉藻の前」、江戸時代になると、一段と凶悪な狐として語られるようになります。
それに連れて、尻尾も二尾から九尾へと変化してゆきます。
 
 
                                       
鉛筆
 
おまけ。
和歌山県立医科大学の研究チームによる「耳鳴り」研究の新論文2報目。国際科学雑誌に掲載PLOS ONE
 
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なお、1報目の同科学雑誌に掲載された論文は、その論文発表に至るまでの経緯の記述とともに、私のプロフィールにURLを貼ってあります。念のため、以下が1報目です。viewsが15000を超えています。
 
 
 
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