ようこそのお運びで。前回、取り上げた美福門院加賀の歌が踏まえていた藤原兼輔の「親心」を歌った和歌について追究してみました。藤原兼輔は紫式部の曾祖父です。
 
「楓の若葉」(通院帰りの和歌山城で)
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       ・・・お題「人の親の 心は闇に あらねども 
                子を思ふ道に まどひぬる哉(かな)」・・・
 
前回、美福門院加賀が我が子定家の出世を喜ぶ歌を記載した際、このように書きました。
 
「こころのやみ」は、子を思うあまりに分別を失って惑う親の心
『後撰集』の次の藤原兼輔の歌を踏まえています。
 
「人の親の 心は闇に あらねども 子を思ふ道に まどひぬる哉(かな)」
・・・人の親の心というものは闇というわけでもないのに、子を思う親心となると、まるで闇夜で道に迷うように、思い迷って分別をなくしてしまうことです。・・・
 
さて、この兼輔の歌はどのような状況で詠まれた歌なのでしょうか。
実は、『後撰集』『兼輔集』と『大和物語』とで全く異なる成立事情が語られています。
 
①『後撰集』『兼輔集』が伝える成立事情。
 
『後撰集』より 当該歌の詞書
「太政大臣の、左大将にて、相撲(すまひ)の還饗(かへりあるじ)し侍りける日、中将にてまかりて、事(こと)終りて、これかれまかりあかれけるに、やむごとなき人二三人許(ばかり)とゞめて、客人(まらうど)、主(あるじ)、酒あまたゝびの後、酔(ゑ)ひにのりて、子どもの上(うへ)など申(まうし)けるついでに」                                                   
・・・太政大臣が、左大将として、相撲の節会の後の饗応をしました日、中将として出席して、饗応が終って、皆それぞれ退出して別れた時に、身分の高い人二三人くらいを引き止めて、饗応される客も、饗応する主人も、酒を何杯も飲んだ後、酔いに乗じて、子どものことなどを話しましたついでに詠んだ歌。
 
・「太政大臣」=藤原忠平(880~949)。「左大将」であったのは、『公卿補任』で確認すると、延喜十三年(913)四月十五日に「左近衛大将」に任ぜられてから延長八年(930)十二月十七日に止めた時までです。
 
・「相撲の還饗」=「相撲の節会」のあとで、その日の勝負に勝った方の近衛大将が自邸で配下の人々を召して饗応すること。
「相撲の節会」とは毎年七月に行われた宮中の行事で、左右の近衛府が諸国の力士を召し、天皇の前で勝負を争うもの。26日に下稽古、28日に召し合わせが行われ、選抜された者が29日に決勝戦を行う。
 
・「中将」=藤原兼輔が「中将で」あったのは、『公卿補任』で確認すると、延喜十九年(919)正月二十八日に「左近衛権中将」を兼任してから延長五年(927)正月十二日に「権中納言」に任ぜられるまでです。
 
 
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成立事情
藤原忠平が「左近衛大将」で、かつ藤原兼輔が「左近衛権中将」であった期間に行われた相撲の節会の還饗の場で、兼輔が詠んだ歌。忠平、兼輔の任官期間は「注」に書いた通り。この任官期間が重なる時期で、しかも七月ということになると、延喜十九年(919)から延長四年(926)まで期間が限定できます。(岩波新体系で「延喜十六年(九一六)から延長四年(九二六)」とするのは不審?です)
 
左と右の近衛府で勝負を争って、左が勝ち、「左」の「近衛大将」であった藤原忠平が自邸で宴会を開いたわけです。宴会も終了し、残ったやんごとなき人、数人で二次会。酒杯を重ね、皆、したたかに酔います。酔うと、つい本音が出るもの。話題になったのは、子どものことでした。親心というものは、まるで闇のよう。子どものこととなると、闇夜で道に迷うように、あれこれ戸惑い、途方に暮れてしまうものだ、と詠んだ兼輔の歌は共感を呼んだことでしょう。
→宴会の二次会で子どもかわいさに詠んだ歌
 
なお、『兼輔集』には、「このかなしきなど人のいふところにて」(子どもが可愛いなどと人が言うところで詠んだ歌」として、
「人のおやの 心はやみに あらねども 子を思ふ道に まどひぬるかな」
「このために 残す命を すてしかな おいてさきだつ こひかくるべく」
という二首を載せます。「相撲の還饗」の時とは書かれていませんが、「子を思う親が集まった場で詠んだ」ことになり、『後撰集』と共通しています。『兼輔集』には二首ありますが、同じ時にもっと詠まれていたかもしれません。その中で秀逸だった「人の親の・・・」の歌が『後撰集』に採られ、詞書が『兼輔集』以外の資料によって補完され整えられて『後撰集』に入集したものと思います。
 
 
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                        「平安朝相撲節会の図」
 
 
②『大和物語』が伝える成立事情。
 
『大和物語』より
「堤(つつみ)の中納言の君(きみ)、十三のみこの母御息所(みやすどころ)を、内に奉(たてまつ)りたまひけるはじめに、帝はいかがおぼしめすらむなど、いとかしこく思ひなげきたまひけり。さて、帝によみて奉りたまひける。
 人の親の 心はやみに あらねども 子を思ふ道に まどひぬるかな
先帝(せんだい)、いとあはれにおぼしめしたりけり。御返(かへ)しありけれど、人え知らず。」
 
 
・・・堤中納言の君が、第十三の皇子の母御息所を、宮中に入内させ申しあげなさった初めの頃に、「帝は(娘を)どのようにお思いになっていることだろうか」などとたいへん心配なさっていた。そこで帝に詠んで差し上げた歌。
 人の親の 心はやみに あらねども 子を思ふ道に まどひぬるかな
先帝は、たいそうしみじみとお感じになった。お返事はあったのだが、世間の人は知ることができない。・・・
 
・「堤(つつみ)の中納言」=藤原兼輔(877~933)。邸宅が賀茂川のほとりにあったことから「堤中納言」と号す。紀貫之・凡河内躬恒ら『古今集』歌人らと交流があり、そのパトロン的存在。紫式部の曾祖父
 
 ・「第十三の皇子」=醍醐天皇第十三皇子章明親王(924~990)。
 
・「母御息所」=藤原桑子『本朝後胤紹運録』の「章明親王」に「母更衣藤桑子兼輔女」とある。
 
「コトバンク」では「延喜(えんぎ)21年(921)5月23日死去の女御(にょうご),楓御息所(かえでのみやすどころ)と同一人ともみられる。」としますが、私は、これは誤りだと思います。なぜなら『日本紀略』正暦元年(990)九月廿二日条に「二品弾正章明親王[醍醐皇子]薨年六十七」とあって章明親王は延長二年(924)生誕と分かりますが、「楓御息所」は同じ『日本紀略』延喜廿一(921)年 五月廿三日条に「女御□□□□卒号楓御息所」とあり、章明親王が生まれる3年前に死去しているからです。それに桑子は「更衣」であり「女御」ではありません。頭注があり、「塙先生曰、空當填藤原桑子四字 桑子中納言兼輔女」と書かれていることから、塙保己一の見解で□□□□のところに「藤原桑子」と誤って補われるようになったものと推測しました。
 
・「先帝」=醍醐天皇(885~930)。
 
 
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「醍醐天皇」
 
 
成立事情
藤原兼輔が娘の桑子を入内させて間もない頃、「娘は醍醐天皇の寵愛を得られるか」と心配でならず、天皇のもとに「子を思うあまりに分別を失って惑う親の心」を詠んで贈った歌ということになります。
 
桑子が入内した時期については、「十三の皇子=章明親王の生年が延長二年(924)であること、兼輔が娘を入内させるにふさわしい位官=従四位下に任じられた時期等を考慮すると、延喜十七年(917)以降と考えられる」(講談社学術文庫)との説あり。兼輔が従四位下に任ぜられたのは延喜十六年(916)です。
 
仮に延喜十七年(917)であったとして、この時期に既に入内していたことが明らかな醍醐天皇の后妃を、その皇子・皇女の誕生年から調べると、(但しwkiで調査したので誤りもあるかもしれません)
 
1 藤原穏子(885~954)=関白藤原基経女。第二皇子・保明親王が903年生。保明は904年に立太子。
 
2 為子内親王(?~899)=光孝天皇皇女。第一皇女・勧子内親王が899年生。
 
3 源和子(?~947)=光孝天皇皇女。第四皇女・慶子内親王が903年生。第五皇子・常明親王が906年生。
 
  第六皇子・式明親王が907年生。第七皇子・有明親王が910年生。第十三皇女・韶子内親王が918年生。
 
4 源封子(?)=源旧鑑女。第二皇女・宣子内親王が902年生。第一皇子・克明親王が903年生。第十二皇女・         
 
  靖子内親王が915年生。
 
5 藤原鮮子(?~915)=藤原連永女。第三皇女・恭子内親王が902年生。第三皇子・代明親王が904年生。第
 
  六皇女・婉子内親王が904年生。第九皇女・敏子内親王が906年生。
 
6 源昇女(?)。第四皇子・重明親王が906年生。
 
7 源周子(?~935)=源唱女。第五皇女・勤子内親王が904年生。第十皇女・雅子内親王が909年生。第十二  
 
  皇子・源高明が914年生。
 
8 満子女王(?~920)=相輔王女。第八皇女・修子内親王が?生。第十一皇女・普子内親王が910年生。
 
9 藤原淑姫(?~948)=参議藤原菅根女。第十一皇子・兼明親王が914年生。皇子・源自明が911年生。

このように917年時点で皇子・内親王を儲けていることが確認できる后妃は九人もいます。その内、917年時点では生存していない、あるいは生存が確認できない2、4、5、6を除いても五人います。

また、皇子・内親王の誕生記録が無い后妃が二人。この二人も延喜十七年(917)時点で後宮にいます。 1 藤原能子(?~964)=右大臣藤原定方女。延喜十四年(914)に醍醐天皇に入内しています。 2 藤原和香子(?~935)=大納言藤原定国女。延喜三年(903)に女御となっています。                                                                                              http://tracethehistory.web.fc2.com/kouhi_itiran52_1utf.html    
             
つまり、桑子が入内した時点で、醍醐天皇には七人以上の后妃がいたことになり、皇子は十二人、皇女は十三人も生まれています。このような後宮に入内させて、果たして醍醐天皇が桑子に目を向けて下さるのか、寵愛して下さるのか、父の兼輔は気がかりでたまらなかったことでしょう。それゆえ、天皇に子を思う親心の歌を贈ったのです。この親の心を汲んで、どうか娘のことをよろしくお願い致しますといったところでしょうか。
→娘が入内する時に、帝に娘をよろしくと詠んだ歌

問「宴会の二次会で子どもかわいさに詠んだ歌」「娘が入内する時に、帝に娘をよろしくと詠んだ歌」 どちらが物語として面白いですか?
 
 
『後撰集』と『大和物語』との関係・・・どちらが先に成立したのでしょうか?
 
妹尾好信氏は、『大和物語』の成立を『後撰集』よりも後、具体的には、天禄、天延から貞元年間(九七〇~九七七)に至る間であるとされ、「『大和物語』作者が『後撰集』に採録された伝えを睨みつつ、より物語りとして興味深い伝えを捜し出したり、あるいは歌語りとしてより効果的な形に改変したりして採録したのではないか」と推論されています。(「『大和物語』成立試論ー『後撰集』との関わりを通してー」)
 
確かに、この兼輔の歌も、『大和物語』のように、子どもが「桑子」と限定され、その入内の時の親心として鑑賞した方が、「さぞかし、おろおろと子のことを案じたであろう」と感情移入しやすいし、物語として完成度が高いように思います。ただ、実際に兼輔がこの歌を詠んだ場を正確に伝えているのは『兼輔集』でしょう。この歌と同時に詠まれた歌も掲載されているからです。『後撰集』は『兼輔集』と矛盾していません。場が具体的になっているだけです。やはり、『後撰集』での語りの方が、『大和物語』の語りより早く成立したものと思います。
 
→『後撰集』の方が『大和物語』より先に成立か。
 
 
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ところで、
 
「人の親の 心は闇に あらねども 子を思ふ道に まどひぬる哉(かな)」には、元歌があったという説があります。元歌は『古今集』恋二の
 
「人を思ふ 心は雁(かり)に あらねども 雲居(くもゐ)にのみも なきわたるかな」という清原深養父の歌。
 
つまり、兼輔の歌は、古今集の恋歌の替え歌だというのです。
 
(面白いことに、深養父は清少納言の曾祖父、兼輔は紫式部の曾祖父です。つまり紫式部の曾祖父が清少納言の曾祖父の歌を借用したということです)
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名歌の横顔 ―古典和歌再読」の要旨
 
「この歌が、『古今集』巻第十二恋歌二の清原深養父の歌「人を思ふ心は雁にあらねども雲居にのみもなきわたるかな」を踏まえて作られている点は、これまで看過されてきた。
 この兼輔の歌が、深養父歌を下敷きにしているすると、『後撰集』の詞書に記されるような宴会の場で披露された場合、その場に集った人々は、深養父の恋歌をもとにして親心を詠み上げた機知に、まず注目したことだろう。だが、親心を率直に言い当てたこの歌は、やがて宴会という詠歌の場を離れ、『大和物語』において、入内した娘を案じて帝に献上した歌とされているように、親の子を思う情そのものに焦点が絞られ、享受されるようになるのである」
 
上記論文の中より
 
「両歌の類似点をより明確にするために,漢字 を仮名に改め,同一文字列に下線を施してみる。
ひとをおもふ/こころはかりに/あらねども/ くもゐにのみも/なきわたるかな 『古今集』5 8 5番,深養父
ひとのおやの/こころはやみに/あらねども/こをおもふみちに/まどひぬるかな 『後撰集』1 1 0 2番,兼輔
「ひと…/こころは…に/あらねども/…/…るかな」 という,全体の構造が一致することは,一目瞭然であ る・・・(中略)・・・「親の切ない愛情を表現するの に,三句の「ども」と結句の「かな」の呼応がより以 上の効果をあげている」と指摘された箇所も,深養父歌の枠組みをそっくり借用した部分ということになる。 そしてさらに,両歌をよく見てみると,傍線部以外の 箇所でも,第二句の「かり /kari/」(深養父歌) と 「や み /yami/」(兼輔歌)という語について,ともに[- a-i]という母音が共通している。」          
 
 
 
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『古今集』の深養父の歌は、「あの人を思う私の心は鳴く雁ではないけれど、雁が上空を鳴きわたるように、うわのそらで泣き続けていることです」という恋の歌。『古今集』は延喜五年(905)成立。『古今集』の歌を暗唱していた当時の人なら、兼輔は深養父の歌を踏まえていることに気付いたことと思います。恋歌を親心の歌にすり替えた機知がもてはやされたのは宴会の場ならでは。帝に献上する歌に替え歌は相応しくないでしょう。『大和物語』にこの兼輔歌が採られた頃には、元の深養父の歌より、兼輔の歌の方が有名になっていたのではないでしょうか。
 
 
 
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                                                              「花橘亭氏作成」
 
 
『源氏物語』には、引き歌が多く見られます。
 
引き歌とは、色々に定義されますが、簡単に言えば古歌の引用。
 
古歌の一部を口ずさんだり、書いたりするだけで、その和歌全体が言おうとしていることを伝える技法です。
 
兼輔のこの歌も、『源氏物語』で引き歌にされています。
 
 
 
『源氏物語』「桐壺」の巻より 
桐壺更衣が死去した後、靫負命婦(ゆげいのみょうぶ)が勅使として、更衣の母君を訪ねる場面
 
「命婦、かしこにまかで着きて、門(かど)引き入るるよりけはひあはれなり。やもめ住みなれど、人ひとりの御かしづきに、とかくつくろひ立てて、めやすきほどにて過ぐしたまひつる、にくれて臥ししづみたまへるほどに、草も高くなり、野分にいとど荒れたる心地して、月影ばかりぞ、八重葎(やへむぐら)にもさはらずさし入りたる。」
 
・・・命婦が、更衣の邸に到着して、車を門に引き入れるやいなや、しみじみと哀れが深く漂っている。更衣の母君は未亡人暮らしであるけれど、娘一人を大事に大切にお世話するために、あれこれ手入れをして、見苦しくないように過ごしなさっていた。亡き娘を思うあまりに分別を失うほどの悲しみにくれて、臥せっていらっしゃったうちに、草も高く生い茂り、野分のためにますます荒れた感じがして、月の光だけが、雑草にもさえぎられずに差しこんでいた。・・・
 
 
更衣の母君が、靫負命婦(ゆげいのみょうぶ)に語る言葉
 
「くれまどふ心の闇もたへがたき片はしをだに、はるくばかりに聞こえまほしうはべるを、私(わたくし)にも心のどかにまかでたまへ。・・・人のそねみ深くつもり、やすからぬこと多くなり添ひはべりつるに、よこさまなるやうにて、つひにかくなりはべりぬれば、かへりてはつらくなむ、かしこき御(み)心ざしを思ひたまへられはべる。これもわりなき心の闇になむ」
 
・・・亡き娘を思うあまりに分別を失って惑う親心も堪えがたく、その一部だけでも晴らすことができるくらいにお話し申しあげたく存じますので、(勅使としてでなく)個人的にもゆっくりとおいで下さいませ。・・・人のねたみが深く積もり重なって、だんだんと心穏やかではないことが多くなりましたところ、横死のような有様で、とうとうこのようになってしまいましたので、畏れ多い帝のご愛情のことが、かえってつらいことだと思われるのです。このように帝のことを恨めしく思うのも、子を思うあまりに分別を失って惑う盲目的な親の心でございます。・・・
 
このように「闇」「心の闇」という言葉で、「子を思うあまりに分別を失って惑う親の心」を表現しています。
 
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実は、この兼輔の歌は『源氏物語』で25箇所も引き歌にされています。これは『源氏物語』の引き歌の中で最多です。紫式部の曾祖父・兼輔への敬意が表われているのかもしれません。
 
因みに『源氏物語』引き歌二位は、7回引用された『古今集』詠み人しらずの
「さつきまつ 花橘の 香をかげば 昔の人の袖 の香ぞする」
 
第三位は、5回引用された『後撰集』の藤原雅正の
「花鳥の 色をも音をも いたづらに 物憂かる身は 過ぐすのみなり」
この藤原雅正とは、紫式部の祖父に当たります。
 
兼輔と言い、雅正と言い、一族の先祖の歌を、『源氏物語』で多く引き歌にしているところが興味深いです。
 
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伊藤雅氏「桐壺更衣」
 
 
引き歌で先祖を重んじた紫式部のことですから、もしかすると光源氏の母親を「更衣」という身分に設定したのは、兼輔の子・桑子が「更衣」という身分だったことが念頭にあってのことだったかもしれません。
 
 
 
いつも、ご訪問・ナイス・コメントを頂き、感謝しております。 
有り難うございます。