ようこそのお運びで。ご訪問、厚く御礼申し上げます。
暑熱の中、「京の七夕」を見て参りました。今回は、京で見かけた草藪にひっそり咲いていた「鹿の子百合」「しもつけ(多分)」などの拙写真と、前回の『伊勢物語本』「いとど深草野とやなりなむ」の続編を記事と致します。
                          前回→ http://blogs.yahoo.co.jp/sofashiroihana/14212654.html
 
1、「藪の中でうつむく鹿の子百合」(京にて)
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 ・・・お題「続編:いとど深草 野とやなりなむ」(千載集・無名抄)
                              +「鹿の子百合・しもつけ」など・・・
 
2、「しもつけ・薄紅」
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『千載集本』より                              藤原俊成の歌
 
「夕されば 野辺の秋風 身にしみて うづら鳴くなり 深草の里」
・・・夕方になると野辺の秋風が身にしみて感じられ、うずらが鳴いているらしい。この深草の里では。・・・
 
 
 
成立事情
久安六年(1150年)に崇徳上皇に詠進した百首歌(=久安百首)の中の「秋の歌」。
 
 
情景
①「夕されば」=夕方になると。
「さる」は「去る」ではなく、「移動する。進行する」が原義。従って「近づく」意にもなる。
 
②「うづら鳴くなり 深草の里」
「深草の里」は、前回も記した通り、鶉の名所。「草深い」地という連想をさせる地名。
 
「なり」は音の描写のある文脈で用いる「聴覚に基づく推定」の助動詞。
「音(ね)あり」が「なり」に変化したという語源説あり。
聞こえてきた音に基づいて、その音を鶉の鳴き声と推定している。
 
                             絵:横山大観
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③「野辺の秋風 身にしみて」
ここで問題1です。
「身にしみて」の主語は何でしょうか?2つお答え下さい。
 
          ・・・thinking  time  3  seconds砂時計・・・
 
                                                           解答:作者・鶉。
 
 
夕暮れが訪れると、野辺を吹く秋風が冷たく寒く、寂寥がしみじみと我が身に身にしみ入るように感じられる。悲しげな鳴き声、あれは鶉の鳴き声。鶉もまた秋の夕暮れの野辺の寂寥を身にしみて感じて鳴いているのだろうか。この草深い深草の地で。
 
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人の訪れも無く、丈の高い草が生い茂った深草の里の秋の夕暮れの寂寥を、鶉の悲哀を帯びた鳴き声で効果的に表現した歌なのですが、この歌の神髄は、この鑑賞では理解できません。
 
4、「しもつけ・紫系」
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過去に理解できないで、この歌を批判した有名な歌人がいました。
『方丈記本』の作者「鴨長明」の歌の師であった「源俊恵」です。
 
鴨長明が『無名抄本』という歌論書に伝えています。
 
源俊恵が藤原俊成に、「ご自身はご自分の歌の中で、どの歌を優れたものと思われますか?」と質問した時のこと。藤原俊成は、こう答えました。
 
「夕されば 野辺の秋風 身にしみて うづら鳴くなり 深草の里
これをなむ、身にとりてはおもて歌と思ひ給ふる。」
この「夕されば」の歌が、自分の「おもて歌」(=代表歌)だと。
 
源俊恵は、重ねて質問します。
「世間では、次の歌を優れたものと申しております。
面影に 花の姿を 先立てて 幾重(いくへ)越え来ぬ 峰の白雲
・・・遠くの峰にかかる白雲に満開の桜の面影を見て、その面影を求めて、幾つもの峰を越えて来たことだ。・・・
それをどうお考えになりますか」
 
すると藤原俊成は、
「世間の見方は兎も角、私自身は、『面影に』の歌は『夕されば…』の歌に比較できるような歌ではありません。『夕されば…』の方が断然優れていると思います」と断言しました。
 
 
6、「しもつけ・白系」
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ここで問題2です。
この後、源俊恵は、弟子の鴨長明に、
藤原俊成の「夕されば・・・」の歌のある句が「無念」だと語っています。
さて、何句目を「無念」だと思ったのでしょうか?そして何故「無念」だと思ったのでしょうか?
世間で評価されている「面影に・・・」の歌と比較して推察下さいませ。
 
          ・・・thinking  time  3  seconds砂時計・・・
 
                              解答:三句目。「身にしみて」とはっきり主観を表現したから。
 
 
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和歌の三句目を、上の句と下の句を繋げる重要な句として「腰の句」と言いますが、
源俊恵は、「身にしみて」という「腰の句」を「無念」だと言っています。
 
 
「これほどになりぬる歌は、景気を言ひ流して、ただそらに身にしみけむかしと思はせたるこそ、心にくくも優にもはべれ。いみじう言ひもて行きて、歌の詮とすべき節をさはと言ひ表したれば、むげに事浅くなりぬる。」
・・・これくらいの秀歌となった歌は、景色や雰囲気をさらりと言い流して、ただ何となく身にしみたのだろうよと思わせている歌こそ奥ゆかしく優美でもあるのです。ひどく表現し過ぎて、歌の眼目とすべき所を、こうだと露骨に表現しているので、どうしようもなく底の浅い歌になったのだ。・・・
 
 
「面影に・・・」の歌の方には、明確な主観表現は使用されていません。
それに対し、「夕されば・・・」の歌の「身にしみて」というのは、しみじみとした感情を表現しています。それが源俊恵には気に入らなかったのです。
 
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しかし、この「夕されば・・・」の歌は「身にしみて」という句こそが素晴らしいのです。
 
 
何故なら、源俊恵は言及していないので気づいていなかったのでしょうが、
この歌は『伊勢物語本』の歌、
「野とならば 鶉(うづら)となりて 鳴きをらむ かりにだにやは 君は来(こ)ざらむ」を踏まえた本説取り(物語取り)の歌となっているらです。
 
9、「薄紅系と白系」
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慈円の自歌合「慈鎮和尚自歌合」の判詞は判者であった藤原俊成が書いていますが、
「八王子十五番」七番右には、判者・藤原俊成の、この「夕されば・・・」の歌が載り、判詞にこうあります。
 
 
「この右崇徳院御時百首の内に侍り、これ又ことなる事なく侍り、ただいせ物がたりにふか草の女のうづらとなりてといへる事をはじめてよみいで侍りしを」
 
 
上記のように、藤原俊成本人が、『伊勢物語本』所収の、「深草の女」が「うづらとなりて」と詠んだ歌を踏まえたと記しています。
 
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ここで問題1に戻ります。
「夕されば 野辺の秋風 身にしみて うづら鳴くなり 深草の里」
の「身にしみて」の主語は、「身にしみて」の主語は何でしょうか?2つお答え下さい。
解答:作者・鶉
でしたが、『伊勢物語』の世界を踏まえているということで、主語がもう一つ加わります。
 
問題3です。
3番目の主語をお答え下さいませ。
 
          ・・・thinking  time  3  seconds砂時計・・・
 
                                                 解答:『伊勢物語』の深草の女。
 
 
 
つまり、この「うずら」は現実の鶉であるとともに、『伊勢物語』の「うずらとなった深草の女」でもあるのです。ですから、「深草の女」が、別れを告げた男性に対し、「深草の里が一段と草深い寂しい野原となるなら、私は鶉になって鳴いています。そうしたら、あなたはきっと鶉狩りを目的に、ほんの仮初めであっても深草の里に来て下さることでしょう。」と詠んだ、その哀れな切実な思いが余情となって深い余韻を残す名歌となるのです。
 
 
11、「鹿の子百合の花の背に日が差す」
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12、「沢桔梗」
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14、「花びらの根元のもじゃもじゃは、蜜蜂」
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                             お読み頂き、有難うございました。 ぺこり。 
 
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