ようこそのお運びで。ご訪問、厚く御礼申し上げます。
「岡寺の石楠花」の方が時系列では前になるのですが、「春日大社」の「砂擦りの藤」「万葉植物園の藤」の記事の合間に「岡寺の石楠花」の記事を挿入する予定です。
今回は4月29日撮影の「春日大社の藤」①の拙写真とともに、越中守時代に「藤」を詠んだ大伴家持関連の歌を記事と致します。雨天曇天でしたので、写真は、下手っぴに拍車がかかっておりますが、ご容赦下さいませ。
 
「春日大社・万葉植物園の藤。春日大社は、藤原氏の氏神。藤原氏ゆかりの藤の名所」
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   ・・・お題「春日大社の藤」①+「布勢の水海の藤を詠んだ大伴家持」・・・
 
ガーベラ
天平20年3月23日に、越中守・大伴家持の元に、都から使者が訪れます。
使者は、田辺福麻呂(さきまろ)。使者を遣わしたのは、橘諸兄(もろえ)でした。
 
橘諸兄は、どのような用件で家持の元に使者を遣わしたのでしょうか?
非常に気になります。
 
 
wikiによれば、
「橘諸兄」について
天平9年(737年)、疫病の流行によって藤原四兄弟をはじめとして、多くの議政官が死去してしまい、出仕できる公卿は従三位左大弁諸兄と同大蔵卿鈴鹿王のみとなった。そこで朝廷では急遽同年の8月24日、諸兄を次期大臣の資格を有する大納言に、4日後に鈴鹿王を知太政官事(令外官、太政大臣と同格で皇族であることが任用条件)に任命して応急的な体制を整えた。翌10年(738年)1月13日、諸兄は正三位右大臣に任命され、一躍朝廷の中心的存在となった。これ以降、国政は橘諸兄が担当し、聖武天皇を補佐することになった。天平15年(743年)5月5日、従一位左大臣となる。天平感宝元年(749年)、正一位に陞階。生前に正一位に叙された人物は日本史上でも6人と数少ない。
 
 
「藤原仲麻呂」について
天平13年(741年)民部卿。天平15年(743年)参議に任ぜられ公卿に列する。天平18年(746年)式部卿に転じる。式部卿は官吏の選叙・考課を握る役職であり、仲麻呂は大幅な人事異動を行って諸兄の勢力を削ぎ、自らの派閥を形成した。仲麻呂は叔母にあたる光明皇后の信任が厚く、またこの頃は皇太子であった阿倍内親王(後の孝謙天皇)とも良好な関係にあったとされる。
天平16年閏1月13日(744年3月1日)、聖武天皇の第二皇子・安積親王が恭仁京で急死している。この事件については仲麻呂による毒殺説があるが、説に対する疑問も出されている。天平20年(748年)に仲麻呂は正三位にのぼり、光明皇后の後ろ盾のもと諸兄と対抗するようになった。
天平勝宝元年(749年)、聖武天皇が譲位して阿倍内親王が即位(孝謙天皇)すると、仲麻呂は参議から中納言を経ずに直接大納言に昇進。次いで、光明皇后のために設けられた紫微中台の令(長官)と、中衛大将を兼ねた。光明皇后と孝謙天皇の信任を背景に仲麻呂は政権と軍権の両方を掌握して左大臣・橘諸兄の権力を圧倒し、事実上の「光明=仲麻呂体制」が確立された。
 
 
 
「八重黒龍」
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極めて簡潔に言うと、橘諸兄と藤原仲麻呂の間に、最高権力を巡る対立があり、
最高権力は、橘諸兄から藤原仲麻呂へと移行していったということです。
そして、その重要な転換点となったのが、天平20年(748年)に仲麻呂が正三位に叙せられたこと。
 
さらに調査すると、仲麻呂が正三位に叙せられたのは、 天平20年(748年) 3月22日。
橘諸兄が大伴家持の元に派遣した使者・田辺福麻呂が、越中に訪れたのは、その翌日の天平20年(748年) 3月23日。
 
 
大伴家持は、橘氏と親しい関係にあり、
「反藤原」の筆頭であった橘諸兄のことを「わが大主(おほぬし)」と呼んでいます。(『万葉集』4256)
 
 
ですから、橘諸兄の使者・田辺福麻呂は、政治的な密命を担って、越中の家持の元に遣わされたのではないかと推測したくなります。
 
 
「麝香藤」
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ガーベラ
3月25日、家持は田辺福麻呂を、風光明媚な「布勢(ふせ)」の「水海(みづうみ)」の遊覧に誘います。
現在の富山県氷見市「十二町潟水郷公園」の辺りです。
万葉時代には、周囲20キロに及ぶ広大な湖であったと言います。
 
 
遊覧に先立って、その前日の3月24日に宴が催されますが、そこで披露された歌から2首。
 
 
本万葉集』より
 
4042   田辺福麻呂の歌
 
「藤波の 咲き行く見れば 霍公鳥(ほととぎす) 鳴くべき時に 近づきにけり」
・・・藤の花がしだいに咲いて行くのを見ると、ほととぎすが鳴くべき時期に近づいてきたのだなあと思うことだ。・・・
 
万葉時代には、藤は、ほととぎすと取り合わせて詠まれるのが一般的です。
咲き始めた藤の花。ほととぎすが鳴くことも期待する意。
 
 
 
4043   大伴家持の歌
 
「明日の日の 布勢の浦廻(うらみ)の 藤波に けだし来鳴かず 散らしてむかも」
・・・明日行って見る布勢の浦辺の藤波に、たぶんホトトギスは来て鳴かないで、空しく花を散らしてしまうのだろうなあ。・・・
 
福麻呂がほととぎすの声を期待しているのに、
期待空しく、鳴き声は聞かれず、藤の花だけが咲き誇り、花を散らす意。
 
 
 
「黒龍」
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25日の遊覧で披露された歌から1首。
 
4051  大伴家持の歌
 
「多古(たこ)の崎 木(こ)の暗茂(くらしげ)に 霍公鳥 来鳴き響(とよ)めば はだ恋ひめやも」
・・・多古(たこ)の崎の木の暗く茂った辺りに、ほととぎすが来て鳴きたてたなら、こんなにひどく恋しく思うことはないだろうなあ。・・・
 
実際に、遊覧の場では、ほととぎすの声は聞けなかったのですね。
ほととぎすが勢いよく鳴いてくれたら、その声が聞けなくて恋しく思う気持ちは、こんなに激しくはなかったの意。
 
 
 
「本紅藤」
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藤」の花は、咲き誇りつつあります。
片や、「ほととぎす」は鳴くこともない。
 
 
ただ、その自然の景を歌っただけなのかもしれませんが、初めに書いた政治的背景と重ねて読みたくなります。なぜなら、ほととぎすは、「」と組み合わせて詠まれることも多く、類型化した表現になっていたからです。
 
例 『万葉集』3918   大伴家持の歌
「橘の にほへる苑に 霍公鳥 鳴くと人告ぐ 網ささましを」
・・・橘の花の咲き匂う苑に、ほととぎすが鳴いていると、人が告げてくれた。網を張っておけば良かったのに。・・・
 
 
 
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「藤」の花は、咲き誇りつつあります。
片や、「ほととぎす」は鳴くこともない。
 
この「ほととぎす」を「橘」に置き換えたらどうでしょうか?
 
ここで、問題です。
一体、私は、
「藤」の花は、咲き誇りつつあります。
片や、「ほととぎす」は鳴くこともない。
に、どのような政治的情勢を重ねようとしているのでしょうか?
 
           ・・・thinking  time  3  seconds砂時計・・・
 
 
 
「山藤?」
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解答
 
藤=藤原氏の象徴
ほととぎす=橘=橘氏の象徴
 
と読み解いてみました。ですので、重ねた政治情勢は、
 
「藤原氏が台頭しつつあり、橘氏は衰退の危機にある状況だ。」
「大伴氏は、橘氏の隆盛を切に願い、橘諸兄様のご活躍を応援する。」
 
 
うーん、牽強付会かも。しょぼん
取りあえず、橘諸兄が使者を遣わしたことについて、問題意識を持って考察を続けたいと思っています。
 
 
                                       お読み頂き、有難うございました。
 
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以前は、お一人お一人にご連絡申し上げておりましたが、何だか厚かましいので今後は控えます。
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