ようこそのお運びで。
「立春」と言うと、どうしてもこの歌を取り上げたくなります。『古今集
』から

「袖ひちて むすびし水の こほれるを 春立つけふの 風やとくらむ」(紀貫之)
・・・(夏の暑い日に)袖が濡れる状態で、手ですくった山の清水が(冬の間)凍っていたのを、立春の今日吹く(暖かい)風が、今頃は、解かしていることであろうか。・・・

中国の書物『礼記
』「月令」の中に、春の方角である「東」、その東から吹く春風は氷を解かすとあります。
この歌は、その知識を前提にして詠まれています。

この歌の面白いところは、一首の中に、三つの季節を詠み込んでいるところにあります。
まずは、暑い夏の日の回想。
恐らくは、木陰でちょっと休憩して、涼をとっていた時。
涼しい風が吹いてくる。清水から湧き出る冷たい水を手にすくって飲む。

手のひらの隙間から、こぼれる水が、木漏れ日できらきら
と光る。・・・そんな情景を私は目に浮かべます。

やがて、冬がやってきて、久しい間、その清水は凍りついてしまいます。

そして、今日は「立春」。暖かい風が吹き始めて、また清水の氷も解けているはず。
凍りついていた冬の期間が久しいだけに、「立春」を迎えたことで、こころときめいてくる。・・・そんな歓喜の想いが伝わってきます。

このように、「立春」の喜び
を一年の時間の推移の中でとらえた、非常に巧みな歌なのです。

しかも、この「立春」の情景を現に見ているわけではありません。
「らむ」という現在推量の助動詞が使用されています。
ですから、
作者は、頭の中で情景を想像しながら観念的に詠んでいるのです。でも、情景は読者の頭の中で、再生され、ありありと浮かびあがってきます。
さすが、『古今集
』の撰者、紀貫之の歌だけありますね。
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「徒然草子」
お題・・・風光明媚・史跡の宝庫「鞆の浦」8
「力石」
良く昔話などに、村の若者が、米俵や大石を肩に担いで、力比べをしている場面がありますよねー。
「1番の力持ちが、1番のべっぴんさんを、嫁っこにもらえるだ」なんて言ったりしています。
でも、現在、残る物は多くはないですよね。
鞆の浦には、残っていましたよ。「力石」が。
これは、港近くの住吉神社の力石。
「鞆の津の力石」について
沼名前神社に20個、住吉神社に3個、奉納されている力石である。
全て花崗岩製で楕円状を呈し、重さは61貫(230kg)から32貫(118kg)とかなりの幅があり、重さ、奉納者名などを刻んでいる。製作年代のわかるものは5個あり、天保15年(1844)から安政5年(1858)までの年号が刻まれている。
鞆は海運の発展と共に多くの仲仕に労働の場を提供した。仲仕は船積荷物の陸揚げや積み込みなどに従事する労働者であり、重たい荷物を肩に担ぎ、足場板の揺れに調子を合わせて運んだ力自慢の人達であった。彼らは、祭礼の場などで力石を使ってその力と技を競い、差し上げた石には名前が刻まれ、神社に奉納された。鞆の津には「東濱・港濱・西濱」の仲仕組合があり、互いに競い合っていたことが知られる。
http://www.city.fukuyama.hiroshima.jp/bunka/bunkazai/minzokubunka/yuukeiminzoku/03.html
全て花崗岩製で楕円状を呈し、重さは61貫(230kg)から32貫(118kg)とかなりの幅があり、重さ、奉納者名などを刻んでいる。製作年代のわかるものは5個あり、天保15年(1844)から安政5年(1858)までの年号が刻まれている。
鞆は海運の発展と共に多くの仲仕に労働の場を提供した。仲仕は船積荷物の陸揚げや積み込みなどに従事する労働者であり、重たい荷物を肩に担ぎ、足場板の揺れに調子を合わせて運んだ力自慢の人達であった。彼らは、祭礼の場などで力石を使ってその力と技を競い、差し上げた石には名前が刻まれ、神社に奉納された。鞆の津には「東濱・港濱・西濱」の仲仕組合があり、互いに競い合っていたことが知られる。
http://www.city.fukuyama.hiroshima.jp/bunka/bunkazai/minzokubunka/yuukeiminzoku/03.html
次の写真は、沼名前神社(ぬなくまじんじゃ)の「力石」です。あれ、19個ですが?
調べると、「拔山」の刻字のある1個が、鞆の浦歴史民俗資料館で展示されているとのことでした。
ずらりと並んでいます。
1つ1つに石の名前が記され、重さ、持ち上げた人物名などが書かれていました。

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年号を刻んだものには、天保15年(1844)嘉永7年(1854)安政5年(1858)などが見られ、この力くらべが幕末に行われたことを物語っている。そして名前にも鞆在住の者ばかりでなく、尾道、笠岡の者や、さらに遠く大阪力持番付にみられる加奈川権治郎の名もみられて、沼名前神社の祭礼の日に、ここで力くらべの奉納興行が行われ、力自慢の者が集まって、この力石を持ち上げたものであろう。そしてその優勝者の名が刻み込まれたのであろう。
この力石が港町に多く存在し、力仕事の仲仕の力を競う「はかり」の道具として用いられたのであるから、これも民具の1種といえよう。 |
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「力石」というものについて
力石の存在が確証されるのは、16世紀に作られた「上杉本洛中洛外図屏風」で、弁慶石の銘を持つ力石が描かれている。また、1603年の日葡辞書に力石の項があり、「力試しをする石」とされている。江戸時代の連歌に「文治二年の力石もつ」という句があり、おそらく文治二年(1186年)の銘か言い伝えがある力石があったのであろう。現存する力石に刻まれた年としては、寛永9年(1632年)が知られているかぎりもっとも古い。
江戸時代から明治時代にかけては力石を用いた力試しが日本全国の村や町でごく普通に行われていた。個人が体を鍛えるために行ったり、集団で互いの力を競いあったりした。神社の祭りで出し物の一つとして力試しがなされることもあった。
20世紀後半に力試しの習俗は廃れ、かつてあった力石のほとんどは行方不明になった。
力試しに挑戦するのは、村の若い男であった。娯楽が少なく力仕事が多い時代には、力持ちは若者のスポーツの一種であった。通過儀礼的に、力石を持ち上げられると一人前とみなされた村もある。しかし過去に一、二の人しか持ち上げられなかったという石もあり、力試しの位置づけもまた多様である。
安政6年(1859年)5月8日生まれの大和国北葛城郡二上村(現香芝市)在地力士・大の松為次郎は、身長5尺3寸(約160センチ)、体重20貫(74キログラム以上)であったが、米8斗5升(約154キログラム)と同じ重さの力石を気楽に持ち上げた、と記述されている 。 (ウィキを基に編集)

さて、貴方様は、何キロの石を持ち上げることが、お出来になるでしょうか??
鞆の浦にあった物は、118キロから230キロまでありましたよ。
因みに私は、箸より重いものは持ち上げられません。
(真っ赤な嘘・山岳部時代は20キロ位の荷物を背負うことは可能でした。でも今は本当にこの程度)

「石もリンゴも、枕にして寝てしまうニャン」
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「素人時事感想」
我々、医大チームは、耳鳴り・脳鳴り・頭鳴りの可視化に成功しました(世界初
)。つまり、これまで自分で訴える以外、誰にもわかってもらえなかった病が、「目に見える」ようになったのです。そして、異常部位の特定も目で見て、できるようになりました。画期的なこと
です。
被験者になって下さった方々は、驚き、かつ喜んでくださいました。
大学案内→組織紹介→倫理委員会→委員会の開催状況→第120回に公開されています。
お蔭さまで、多くの被験者の方にご協力いただきました。被験者の募集を一旦中断します。期間を置いて、再び募集致しますので、もしご希望がございましたら、ご連絡ください。
関心のある方は、気軽に「内緒コメ」くださいね。
Yahooのアドレスを取得していない方では、コメントの最初に「内緒にしてください」と書いて下さい。コメントは私のみに読め、他の人にはわかりません。こちらで承認の手続きをしなければ、公開されませんので、実質「内緒コメ」です。連絡できるアドレスをお教えいだだければ、夫から大学のアドレスで詳しい内容をご連絡します。
ソファ


