世の中、趣味とは星の数ほどあるものだ。
プラモデルを作ることが趣味。車をカスタマイズするのが趣味。
特定ブランドのアイテムを手に入れることが趣味。アイドルや俳優の追っかけが趣味。
中には、倫理的法律的に問題のある趣味もまた、多い。
私が趣味を尋ねられたら、堂々と「読書と煙草」と答える。
読書はまだしも、煙草が趣味というのは昨今いささか肩身が狭い。
聞いた人間のうち、喫煙者は同病相哀れむという顔をするし、
医者や煙草を吸わない男女は、気遣わしげにこういうのだ。
「煙草は健康に悪いよ。やめたほうがいいよ」
「奥さんや子供がかわいそうだよ」
一理ある。
煙草はいわば中毒性の毒物だ。
シンナーを吸って悦に入る人間や、阿片窟の片隅で夢幻の世界に酔い潰れる人間-日本では明確に犯罪者だが-と根本的には変わらぬ。
自分の手でやめようと思ってやめられないからこそ、禁煙外来なるものもあるのだろう。
だが、ほかの趣味と同じく、節度を持って嗜む限り、
それは誰の指図を受けるものでもない。
趣味とは耽溺はしても、惑溺はしないものだ。
惑溺したらそれはもう趣味ではない。
私は学生時代煙草に嫌というほど惑溺した。
社会人となり、ふと自信の体力の衰えに恐怖し、煙草を辞めた。
学生時代との一種の決別の儀式でもあったのだろう.
そして数年が過ぎ、学生のころからの彼女と結婚し、子供も生まれた。
仕事では徐々に重責を任されていた。
そしてふとまた、煙草を吸いたくなったのだ。
昔仰ぎ見た父や祖父のような社会人となった時、大人の男は大人らしく
節度を持って趣味を持つのもよい、と考えたからである。
であれば、単に学生のころと同じように、ただ数を吸えばよいという訳にはいかぬ。
英国紳士がスモーキング・ジャケットを着て、クラブで静かにパイプを燻らせたように。
アメリカの男たちが葉巻をゆったりと楽しんでいたように。
江戸の昔、庶民が来客というと煙草盆を出し、もてなしとしたように。
煙草というものを理解し、楽しみ、発掘していかねばならぬ。
無論、現代の世情に合ったマナーを保って、だ。
そう思って見渡すと、世の中マイルドセブンとマルボロだけではない。
数少ないながら、煙管を作り、煙草を刻む人々もいれば、
パイプや葉巻を楽しむ人もいるし、
まるでアラビアン・ナイトの呪術師のように水煙草を瞑想的にふかす人々もいる。
私は、いくつかの自主基準と引き換えに、煙草を積極的に楽しむことに決めた。
ひとつは数を吸わないこと。吐き気がするほど吸うのはおろかと言うのもおこがましい。
その結果、肺や口腔を汚し早死にしては、趣味の意味がない。
そしてマナーを守ること。それは銜え煙草、路上喫煙、子供の前での喫煙も含む。
ちなみに娘(1.5歳)の前でもしない。
私自身が、紫煙濛々たる家の中で育ち、
小児喘息をあっさり完治させたのだから気にするほどでもないだろうし、
まあそれ以前にいくら子供が無知と言っても、目の前の熱い物体にぶち当たるようでは動物失格だろう。
とはいうものの、所詮社会の風潮というのは理性で動いてはいない。
1億人が白と言えば、黒塗りのベンツも白となるのが「庶民の世論」というものなのだ。
確たる証拠がなかったとしても、声の大きい人間とそれに追従する人間たちが勝つ。
だからこそ人間社会は度し難く、また一方で面白いのかもしれない。
話はそれたが、それらの基準を守りつつ嗜む煙草は実にうまいものだ。
このブログでは、未熟ながら、そうやって嗜む煙草や嗜んできた煙草を適当にレビュウしようと思っている。