「ごじたくーる 歴史模擬授業」7 秦と漢 | 「育児書にない!」~ASD母子の育児&お勉強&歴史の授業~

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ASD(自閉症スペクトラム)当事者で、娘もASDである、元社会科塾講師のセザール=れくす、が描く、「ASDのお子さん向けの受験勉強についてのブログです。
育児についての話や不登校の娘への対応の話、自分自身の生き方についても語ります。

みなさま、昨日もありがとうございました。


今日は土曜日なので、

「ごじたくーる 歴史模擬授業」をば。


このシリーズは、

架空の塾講師の、れくす先生、と、

架空の生徒、たぬしゅるちゃんに

授業する形です。


基本的に、れくす先生が

話す形です。


詳しくはこちら↓


はじめに 





先週は、中国史の、周と春秋▪戦国時代を

お話しました。



前回のお話はこちら↓ 



周王朝の封建による、

周王と諸侯(周王に領地を与えられた地方のトップ)たちの関係が、

だんだんと崩れ、

諸侯同士が覇権争いをするようになりました。

その時代が春秋時代

そして、

最終的に、周王を無視して

諸侯たちが自ら王を名乗るようになり、

王の乱立、争い、戦い、が続いて

いったのが戦国時代でした。


今回はその戦国時代を終わらせ、

中国を統一した王朝である


そして


その秦のつくった形を受け継ぎ、

同時に秦の失敗を繰り返さない

方法を駆使し、それ以後、長きにわたる

中国の体制を

作った王朝の


をお話しします。



ただ、中国史は好きだけど

苦手な私なので、

これで今は精一杯の記述です。


これからも精進していきたいと

思いますので、よろしくおねがいします。


お願い猫からだ猫からだ猫からだ猫からだ猫からだ猫からだ猫からだ猫からだ猫からだ猫からだ猫からだ猫あたま


ここからが、れくす先生の授業です。

↓↓




1:秦の始皇帝の中国統一


 

1:復習(春秋▪戦国時代)


さて、前回は

周王朝の成立から

春秋戦国時代を行いました。


諸侯同士の覇権争いが続き、

そのうち周王を無視して

各地の諸侯が王を勝手に名乗るようになったのが戦国時代でした。


つまり、それは、

王がたくさんいる、ということだね。


そして、国同士で戦う時代が長く続く。




その戦争状態を終わらせたのが

の国の王さまでした。


 

2:秦の中国統一



紀元前221年に、ついに

他の国々を征服して、中国を統一します。


このころになると、殷や周のように

華北という一部の地域だけの支配でなく

今の中国にあたる地域のほとんどを統一する、

という形になる。


春秋▪戦国時代に、

あらゆる国が乱立し、その国がお互いに

自分の国を豊かにしよう!と

色々と開発していくことになるのだから、

結果的に、現在の中国国内の範囲まで

古代中国の世界が広がっていっていた。

だから、秦がその国々をすべてまとめたら、


「中国を統一」と言えるわけです。




そして、秦に王さまは、周時代のように

王を名乗ることはしず、別の名称を

使うことにした。


なぜか?というと、

みんなが

王を自称して戦争しまくってた時期に、

「自分がみんなをまとめる王だよ!」

と言っても、説得力が弱い。

結局、また戦乱の時代(戦国時代)に

逆戻り。




私たちは、

秦王より未来の歴史まで知ってるから

これで戦国時代は終わりとわかってるけど、

当時はわからないからね。アセアセ




新型コロナ(コロナ禍)の、この状態も

いつ「終わり」なのか?の

未来がわからないから、

緊急事態宣言が解除されても

どこまで自粛をとくか?の

判断がつかなくて苦しいんだよね。


もう大丈夫だ!と思ったら

また感染者が増えて…

のパターンが続いているのだから。


後から考えたら

「あのときは自粛すべきだった」とか

「あのときは、気にせず旅行に行けばよかった」とか思えるけど、

未来が見えないから、警戒していきていくしか

ないんだよね。えーん



歴史を見るときも、

現在から未来を知っている感情で、

歴史人物の行動を見ると、

滑稽にみえたり、暴走状態に見えたり、

することはあると思う。


でも、彼らは、その時代を生きていて

そこで考え、そこでがんばってるんだ。


だから、視点や心は

未来を忘れて見ないと

歴史は理解できなくなることがあるよ。


ニコニコニコ


さて、話を戻します。



は、王でなく、

すべての王をまとめる、

王より上の存在である

皇帝」という総称を使って

国をまとめます。



紀元前221年に中国を統一し、

はじめて皇帝を名乗った彼(秦王の政)は

皇帝という名称で統治を始めたことから、


始皇帝


という名称で呼ばれます。


秦の始皇帝以後、

中国の統治者(王朝のトップ)は

王でなく「皇帝」を名乗ります。




ちなみに、この「皇帝」という名称は
中国の神話に出てくる存在、
ある8人(神)の総称である
「三皇五帝」から
とってます。

この「三皇五帝」については、
秦と漢に関する陰陽五行説や
漢から魏への「禅譲(ぜんじょう)」などの
王朝交代に関する歴史的考えに
関係することなので、
次回に詳しくお話ししますね。





秦の始皇帝は
国をまとめるだけでなく、
あらゆることをまとめます。


そのなかで、2つを話します。


1つが、文字単位基準の統一。

今の価値観や生活からしたら
びっくりだと思いますが、
当時は、統一してなかったんです。
単位が統一するのって、
自分とその周辺だけで
生活してたら、特に必要はないんですよね。

たとえば、家族で食べるゴハンをつくるときも、多少、食べ物の大きさの差があっても
気になりませんよね?
顔見知りでいつも合うメンバーですので。


でも、お店で売るとなると、
全く知らない相手にたくさん
売るということになるので
大きさや重さは統一しなきゃ
不平等になります。
文字も統一しないと、
相手に伝わりません。
統一した基準がないと
争いの元になります。


文字や貨幣や単位を統一しないと
円滑な経済活動はできない、というのは
確かなんです。

各地域の文字をすべて書いてたら
時間がかかります。
地域によって貨幣が違うとなると
地域間での売り買いが大変です。

単位が違ってたら、売り物に差が出て
不平等になります。


つまり、たくさんの人を
まとめるためには、
文字や単位は統一することが
必要になります。


始皇帝
文字貨幣
長さ容積重さ、の単位を
統一しました。




もう一つ統一した(まとめた)ものが、
北方の遊牧民族がたびたび中国に侵入する
ことがあり、その侵入をふせぐために、
春秋▪戦国時代に、あらゆる国が
防壁いわゆる城壁を建てました。

しかし、当時は、散乱して城壁が
あっただけでした。
それを秦の始皇帝は
連結して、1つの
長い城壁にしました。


長い壁にしたら、どこからでも
侵入できなくなりますから。


その整備した長城があまりに長いので

万里の長城(ばんりのちょうじょう)
と言います。(里は距離の単位。「万」の
距離と表記すると
だからかなり長いイメージ)


ちなみに、
「秦の始皇帝が万里の長城を作った」と
言う人がいますが、
「作った」でなく「整備した」か正しいです。


(現在残っている万里の長城は
秦の時代のものそのものでなく、
いくどとなく改修され、
後の王朝の明(みん)が改修したものです。)



始皇帝は自分自身に権力を集中させ、
次々に、あらゆることを
まとめていきました。

このように、1つに権力が集中して
政治をしていく形態を
中央集権と言います。

秦の始皇帝は権力を彼自身に集中し
政治をしたので、
秦は中央集権の政治をした、という
形になります。

この中央集権の国家の形態は
漢にも受け継がれていきます。

(ちなみに、周は、地方の諸侯が自分の領地で
権力を持ちつつ、中央政府の
周の王に従っていた形なので、
周は地方分権の政治の側面が強いです。)

秦の始皇帝の権力はすさまじく、
それを象徴するようなものがあります。

それが、兵馬俑坑(へいばようこう)

始皇帝のお墓の近くから
人や馬の形をした実物大の土人形が
たくさん並べられてたところのこと。

すごく大きいのよ!規模がすごい!

そんな規模のものをしっかりつくれるほど、
始皇帝には権力があったんだな、と
いうのを兵馬俑坑は物語ってるのです。






しかし、秦の始皇帝は
急いで、やりすぎたんです。

厳しいこと、残忍なことも

「理想の政治」のために
やりました。


そのため、始皇帝の死後、
秦が中国統一して15年で
秦は滅びました。


そして、次に中国を統治したのは

漢という王朝です。

2:漢


 

1:漢の政治

は、これ以後、約2000年続く
中国の国家体制、価値観、
そして、中国の周辺の国々との関係などの
基礎を作っていきます。




漢は、秦の制度の多くを受け継いだけれど、
秦の失敗を教訓として、政治をしました。

漢は、
秦のときには敵視されていた儒教
重んじました。


儒教って覚えてる?

春秋▪戦国時代にお話しした、
考え方です。

諸子百家の人々は
基本的に
「国のトップはどうあるべきか?」とか
「人間というものはどういうものか?」とか
「国というものは、どうすれば
うまく機能するのか?」
などの心得、考え方を述べています。

哲学に近いです。



諸子百家の中で、
法家の考えを重んじたのが秦でした。

法家の考えは、
とんでもなく強い権力を持つ君主(トップ)が
法と策略によって、国を統一すべき、
という考え方です。

それ自体は、戦乱をなくすには
有効なやり方ですし、
まずはそれをしないと、
国の統一は無理だと
私は思います。

キレイごとだけで政治はできません。

中央集権国家をつくるには
法家の考え方はとても有効な考えかな?と。


ただ、秦は、法家の思想以外の
自由な思想活動を禁止し、
儒教に対する弾圧も厳しかった。


また、王朝交代の考え方も、
「力で倒す!が正義」という形です。
(陰陽五行の考え方でいえば
相剋の考え方ですね。)


対して、が重んじた儒教というのは、
いわゆる道徳的な統治を説いたものです。

ただ、道徳というと、今の学校で習う
「道徳」と思いがちですが、
それは違います。

今、習っている「道徳」は
「みんな、仲良く」
「察することができるのが良き子供」
「親や先生には尽くせ!」
みたいなことを儒教そのものの
本質ではないんです。

上みたいなことになるのは
理想としてある。

でも、その理想の理由は
「争いのない世の中を続けるため」であり、
さらに、
ある前提というのがあるのが、
儒教の本質だと思ってます。

その前提とは
「トップにたつものこそが、
けじめ、と、愛情をもって、
統治すること」であり、
「徳」が必要で、


その「徳」がある人に
人々は「孝行」するのです。

トップ(王、皇帝)だから、親だから、先生という
上の地位だから

国民が、子供が、生徒が

従うわけじゃない。


徳がない、けじめがない、愛情がない、
横暴なトップには、
従う必要はないんです。

それが、儒教の本質だと私は思います。

日本も儒教国家ではありますが、
前提が抜けてる。

ひどいことをする親や先生に
従わない、逃げたくなるのは
悪いことではない。
毒親から逃げること、
先生からいじめられて不登校になること
に対して、罪悪感や負い目を感じる
必要はありません。

話を元に戻しますね。

ニコニコニコ

秦も漢も、どちらも中央集権体制では
ありますが、漢は、秦の失敗を学び
うまく色々とバランスをとって、
一大帝国を築きます。


領土も秦のときよりも広げます。

 

2:漢の外交、貿易



北方では、
漢を圧迫していた、
北方の騎馬遊牧民族を撃退したり、

北東部から朝鮮半島に
かけての地域に楽浪郡などを
おいて支配をしたときもありました。
「郡」というのは、行政区画の一種。
(わかりやすい行政区画の例だと県や市など、
ですね。)
つまり、その地域が漢の支配地域になり、
行政区画として、楽浪郡と名前をつけられた
ということです。
(楽浪郡以外にも漢がおいた郡はあります。)


西方までも漢は支配地域をのばしました。
今の中央アジアあたりまでですね。



結果、西アジアや地中海地域とも交流を
持つようになります。

そこで、西アジアや地中海地域と中国を
結ぶ交通路も生まれます。


その中で陸路のことを、
シルクロード(絹の道)」と言います。

なぜ、シルク(絹)のロード(道)と
いう名称なのか?というと、

この道を通って、
中国の絹が西方にもたらされたからです。

西方というのは、例えば、
古代ローマ帝国などで、
中国の絹がローマ帝国に運ばれました。



逆に、西方やその周辺から中国に
もたらされたものがあります。

西方からは、馬や、ぶどう。
インドからおこった、仏教、などが
この時期に中国に伝わった。



たぬしゅる「え?仏教?仏教って
中国の宗教かと思っていた。」


そう勘違いする人いるよね。


仏教はインドで生まれた宗教です。

インドが伝わる前には、
中国にも別の宗教(神話)は
ありました。

例えば、
秦の始皇帝が、「皇帝」の名称を
つくるのに参加した三皇五帝も
中国神話ですし、
朱雀や青龍、麒麟などは
中国の伝説上の神獣です。


日本では
中国経由で仏教が伝わったことや、
仏教の経典が漢字で書かれているから、
仏教は中国で生まれた宗教だと
思っちゃうんだよね。

お盆(盂蘭盆会:うらぼんえ)の語源も
元々はインドのサンスクリット語(ウラバンナ)
から来ています。



以上が、北方、西方と漢の関係です。


では、東、南(北東、東南)を含めた
東アジア内の周辺諸国との
関係はどうでしょう?

東アジア、ということは、
日本もふくみます。

ただし、当時の日本は
日本国というまとまりは
まだできていなくて、
小さいまとまりが
あっただけです。
(小さな国単位)


漢は、中国を中心とした
貿易形態を東アジア地域で行いました。
この形態は長く続きます。


その貿易形態を、
朝貢制度(ちょうこう せいど)と言います。

朝貢とは、

「中国の徳を慕って」、周辺諸国が
中国の臣下になります。
臣下となった国は、中国に使者を送り、
貢物(みつぎもの)を差し出します。
そして、そのかわりに、中国は
貢物の数倍以上の価値をもつ物品を
与えたんです。

これだけ聞くと、
えーーー?!
と思うかもしれないけど、

これは当時としては
双方にWinーWinの関係だったから
王朝が変わっても長く続いたわけですよ。

臣下という響きだから
微妙に感じるかもしれないけど、
臣下は奴隷じゃないのよ。


どちらかといえば、
先輩と後輩って感じかな?


当時の中国は

政治も技術も文化も最先端!!


なので、
先輩(中国)のお宅に伺うときに
何かしらのプレゼントを持っていくと、
その先輩がいつも、ものすっごい
お返しをしてくれる!
って感じに、周辺諸国はなるわけです。

先輩(中国)としては、
この朝貢制度は金銭的にも安全を守るって
いう点でも便利なシステムだったんだ。

ほら、戦争、戦いで他の国と戦うとなると
軍事費がたくさん必要になるし、
犠牲者も多い。
仮に勝って、そのあとで、支配すると
なると、その支配するにもお金が
かかる。さらに住民に反発されたら
また戦争が…の連続。

「お互いに仲良くしよう!」という
理想だけで戦争は終わらないのは
春秋▪戦国時代で中国は学んでる。


朝貢制度なら、少なくとも
人が死ぬ確率は戦争より格段に
少ない。

ちょっと高い返礼品を渡すとしても
軍事費よりはよっぽど安上がり。


臣下なので、同等とは見なされないので
現代の感覚だとひっかかる人はいるとは
思うけど、当時としては、
とても効率的で画期的なシステムでした。

春秋▪戦国時代、秦の中国統一と中央集権国家の成立、秦が短命王朝におわった
理由など、たくさんの歴史を学んだ漢が
行った、さまざまな政策は
このあと、中国国内だけでなく東アジアの歴史にも大きく関係していきます。


歴史を学ぶことの大切さを漢は
教えてくれます。


さらに、漢は、これまで(伝説上の時代から漢王朝)の歴史を本にまとめます。

中国の歴史、また、まだ文字がなかったところ(もしくは現代では解読できない)国の歴史も
中国の歴史書は書いてます。

弥生時代の日本の記述も少しではありますが
書いてありますので、これで、当時の日本が
どういう風であったか?がわかるときも
あるのです。


歴史書をつくるというのは、
自分たち、自分たちの家系が
中国における正当なトップ(正統な後継者)
だと示せる最適なツールなんですよ。
大義名分として使える。

文書に残すと説得力がありますし、
その文書は未来にも残せるので、
とても有効です。


また、漢の時代に紙も発明されたので
文書を残すのに大変便利になりました。
(それまでは、竹の札、竹簡です。)



このように、
漢の政治や文化はこの後の中国、東アジアの
礎になりました。

今回は以上です。

ノートにもまとめたので
ご覧頂けると助かります。ニコニコ






今回は以上だよ。

次回は、周から漢までのまとめをしたあと、
三国時代、晋を行っていきます。

↑↑↑

ここまでが、れくす先生の授業です。

宇宙人しっぽ宇宙人からだ宇宙人からだ宇宙人からだ宇宙人からだ宇宙人からだ宇宙人あたま


また、詳しく秦と漢の違いや、
歴史書の書き方(紀伝体)の話や
中華思想(華夷思想)の話を
ノートにまとめました。

さらに、陰陽五行説から見た
秦と漢の王朝成立についての話も
ノートにまとめました。

このあたりの詳細は、テストには出ませんが、
詳しく知っておいたほうが、
中国の歴史を理解しやすくなります。


また、高校の古典で漢文を習うときの
理解の助けにもなります。









今回は以上です。

今回もかなりマシンガントークになりまして
すみません。


中国史好きなのに苦手な私としては
これが精一杯です。
まだまだ精進していきますので
よろしくおねがいします。