4章と5章はノートの形式をちょっと変えてみます。

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Chap 4 Madness: Biological or Constructed?  

 ハッキングは、社会的構成の観念や実在についての観念にもとづいて提起された問題に対して、別の思考方法を示唆しようとする
 ここで焦点化する精神疾患の文脈では、しばしば、議論が「Xは本当に存在する—いや、Xは構成された」という形をとる[101]。そこでは、「構成された」という言葉だけでなく、「本当に存在している」という言葉、すなわち実在についての観念が問題となる。ある病気が本当に存在しているか否かの論争では「本当に存在している」という言葉自体の文法に十分な注意が払われていないために、しばしば混乱が生じる*。
 まずハッキングは「相互作用」への注目を喚起する。精神疾患の文脈では、複雑なタイプの相互作用が観察される。Xが「社会的に構成されている」という見解と「リアルである(本当に存在している)」という見解とは折り合いが悪いように思われるが、この2つの見解の緊張関係の一部は、それらの間の相互作用から生じている。しかし、それだけでない。精神と身体の古くさい二元論を想起させるような複雑なタイプの相互作用がこれに加わる[ibid.]。その複雑な相互作用は、精神と身体についてのハビトゥスを現す精神障害に目を向けることではっきりする。現代の科学者の多くは「統合失調症」が根本的には生化学的・神経学的・遺伝学的(おそらく3つすべての)障害であると捉え、少数派の批判者たちはその疾病が重要な点において社会的に構成されてきたと考える。ハッキングは「いずれの陣営にもつかず、両者の考え方が真向から対立することなく、そして、社会構成主義風の語りに深入りすることなく、両者の考え方が発展していくための余地を作りたい」と言う[102]。

 注*:ハッキングによれば、パトナムはこの問題の核心をついている。
  「よくある哲学の誤りは、「実在(reality)」という言葉が単一の永遠に変わらない総体
   (single super things)を意味しなければならないと考えてしまい、言語とわれわれの
   生活形式の発展に伴い、われわれが実在についての自らの考えと絶え間なく再交渉
   を繰り返すということ、そしてそのような再交渉を“せざるをえない”ということに
   目を向けないことである」(Putnam 1994:452)


「相互作用する種類」と「無反応な種類」

「種類」
「種類」という言葉はもともと、特定の哲学的含意を持たない中立的な名詞として使用された。ここでは、「ものを分類するための原理」、すなわち、分類されるものと相互作用する種類そのものに注意を喚起するために使用する[104]。

「相互作用する種類(Interactive Kinds)」(ex. 人間、子ども)
・種類のうち、「その種類に分類される対象に対して影響をもつような種類」を「相互作用する種類」と呼ぶ。この種類は分類されるものと相互作用するので、分類自体が変化・変更される[103]。
・「相互作用」というフレーズは、分類される人が彼自身に適用される分類を意識し、その結果、その分類に自己意識的に反応することを必ずしも意味しない。意識は確かに個人的なものであるかもしれないが、人の集団の中で共有され発展し、人が分類される仕方に従い割り当てられるプラクティス(慣習)や制度のマトリクスの中に埋め込まれている[104]。たとえば、子どもたちを多動と分類することに根拠をもつ制度やプラクティスのなかで、子どもが多動とみなされることにより、多動という分類は子どもたちと相互作用する。
→つまり、「相互作用」は人間がある記述のもとで行為したり、経験する限り、その分類を取り巻く、プラクティスやより大きな制度のマトリクスのなかで生じる
・そしてまた、相互作用する種類という言葉により、ある人びとやその周囲の人びとにより知られると、制度の中で作用始め、個人が自らを経験する仕方を変化させ、そしてその人自身が分類されていることによって感情と行動を変化させるような分類に焦点があてられる[ibid.]。
 
「無反応な種類(Different Kinds)」/「自然種」(ex. クォーク、水、硫黄 etc.)
相互作用する種類との対比として、古典的には自然種と呼ばれてきたものを「無反応な種類」と呼ぶ。つまり、無反応な種類は、相互作用する種類のように、分類の仕方を意識して、その分類と相互作用を“行わない”種類のことである。哲学者が自然種について語る際には、無反応性を自然種が持つことを前提としている。自然種名で武運類されるものは自らが分類される仕方に気付くことはなく、そうした分類と相互作用することもない。


精神障害

ハッキングは「あるものが相互作用する種類であると同時に、無反応な種類であったらどうなるか?」と問う[108]。「精神遅滞」、「統合失調症」、「小児自閉症」の3つの精神障害は「本当に存在する」と「構成された」の間の根本的緊張に関する極めて鮮明な例を与える[109]。

《構成主義的見解》

Ex 1「精神遅滞」
:構成主義サイドのこの障害についての研究は、「精神遅滞の子ども」という不可避に見える分類が、それ以前のラベル(ex.「精神不安定」「白痴」「痴愚」)といかに重なり、またいかにしてそれらから発展してきたかを示す(Trent 1994)。精神遅滞はある人間を記述する不可避な概念のように見えるが、実際には、その概念は社会構成物である。
 この事例はまた、精神遅滞を含む歴史上さまざまな時期に現れた分類=相互作用する種類が、どのように機能するかについての実例を与える。その分類は制度とプラクティスの複雑なマトリクスに埋め込まれ、そこである仕方で分類された子どもは自分たちがどのように分類されたかを知り、個人/集団として新しい行動パターンをとるようになる。そこでは、子どもの行動の変化だけでなく、新しい種類の行動が生まれていることから、子どもを分類する仕方が変化するだろうと予測できる[112]。

...looping pattern :それ以前の分類を意識して、またその分類に関連する理論・プラクティス・制度を原因として、個人が変化し、その変化を通して個々人が再分類されることにより、分類の変化が生じる。

Ex 2「統合失調症」
:統合失調症は疾病の種類ではなく、違った時期に違った仕方で障害を持つ人々が統合失調症として一つに集められてきたのであるが、実際にはその人たちは一つの種類に属するわけではない[113]。構成主義者の研究は別の種類のループ効果に注意を喚起する。統合失調症を初め精神障害は、有意味な対象としていったん集められると、ある社会的背景のもとでその障害を負う患者に因果的影響を及ぼす。統合失調症という分類は、そこに分類される人の感受性にあらゆる仕方で影響を与える。たとえば、統合失調症と診断された人が、その診断基準となる症状(幻聴)に注意を向けたり、注意を払わなかったりすることで、統合失調症の条件としてのその症状の内容や診断における症状の役割自体が変化する。

Ex 3「小児自閉症」
:精神遅滞や統合失調症の場合と同じように、自閉症は人が単に持つものではない、あるいは自閉症は一つの障害ではないと主張する偶像破壊的な文献が出続けている(ex.「自閉症は「人間が持つもの」ではなく「人間のあり方」である」)[115]。自閉症児の事例は「相互作用」という言葉が、分類のされ方に対するある一人の個人が示す反応だけを意味するのではないことを明らかにする。つまり、「相互作用」の語は、分類されることがその集合全体に対して持つ帰結、そしてそれが自閉症と分類される子どもに密に関わる他者に対して持つ帰結のことを意味する。たとえば、 自閉症児との関連で、自分の感情を表に出さない「冷蔵庫マザー」として分類される母親(家族)は、そのような分類により影響を被り、その結果、家族に変化が生じることで、小児自閉症が何たるかが意識される。

これらの事例から、多くの精神障害を構成主義的態度により捉えようとする強い動機づけが生じるだけでなく、そうした分類がそこに分類される個人にたいして何をなすのかに関心が集まることが分かる[115-6]。しかし、ハッキングによれば、社会的構成の語りの欠点は、それが一方向的な関係を示唆することにある。つまり、社会やその断片が(そのように記述されなければ存在しなかったような)障害を作りだすと社会的構成の語は示唆してしまう。しかし、「相互作用する種類」の概念の導入により、社会における記述/分類と障害が両方向的な関係にあり、むしろ入り組んだ関係にあることを明らかにすることができる[116]。精神障害についての別の側面が次に検討される。