8月30日、伊丹市の南部、阪急電車の新伊丹駅近くへ
車を引き取りに行きました。
阪急電車・神戸線・塚口駅より、真北へ走る伊丹線、
稲野駅、新伊丹駅、そして終点の伊丹駅、3kmほど。
私は、伊丹駅から真西方向に10分ほどの所で、
生まれて3ヶ月目から25歳まで生きていました。
伊丹小学校、伊丹北中学校、県立伊丹高校で学びました。
駅を出ると、新伊丹駅舎は昔のままです。突然、50年前、
青春時代の風景が、早送りの写真のように回り始めました。
今見ると広いとは言えない道路ですが、私が幼き頃、
昭和20年代に舗装された立派な道路でした。
この地域は、阪急電車が高級住宅街として開発し、
100坪以上の邸宅が道路の左右に並んでいます。
「新伊丹ビル」、私が20歳前後、50年前に登場、
当時では最新のビルで、おしゃれなお店が入っていました。
ビル内のスナックで若い女性と楽しく話しながら、
ウィスキーを飲ました。しかし、1回で3千円前後
月給が2万円ぐらいのとき、2回で終わりました。
「伊丹名菓・福住」、まだ営業している(失礼しました)!
戦後「甘い」が高級の時代、兄や姉に取られないように、
しっかりとガードし、少しずつ、大切に食べました。
◆阪急電車が神戸線を計画したとき、最初は伊丹駅を
通るルートでした。当時の商店街が、お客が電車で梅田や
三宮に買いに行くと反対し、今の伊丹線になったと。
でも、時の流れは、伊丹商店街を没落させました。
もし、計画通りに神戸線の伊丹駅なっていたら、
東に豊中市と池田市、北に川西市と宝塚市、西に西宮市、
南に尼崎市、その中心として、阪急電車はお客を連れてきて、
伊丹商店街は大繁盛したことでしょう。
歴史とは、その時の指導者の能力を、容赦なく証明しまね。
<今日の一句>
その駅で 我が青春が 蘇る