生きるのを楽にするためにその1 | Nobody Is Right. Nobody's Perfect.

Nobody Is Right. Nobody's Perfect.

中島みゆきの曲と吉川晃司の曲の名前から。

小学3年生のころ、将来の夢とかどういう職業に就きた
いか、というものが全く思い描くことができず、

「自分は何のために生きているんだろう?」
「自分には生きる価値があるのだろうか?」

そんなことを考えて不安になり、漠然と自殺願望を抱い
ていました。

当時の担任は何度も母を呼び出していました。

「あいつは自殺するやつだ」

と母に言ってたそうで、ある面では正しかったのですが
とても感じが悪く、母は「あのメガネザル」と言って毛
嫌いしてました。

僕に対しても、

「お前は変わったやつだな」

とニヤニヤしながら言ってたり。

僕は内向的で人見知りな部分がありました。

小学5年の時は嫌がらせで学級委員にされ、学級委員だ
けの会議では、再三「声が小さくて聞こえない」と注意
され、泣き出してしまったり。

6年生の時に引っ越して環境が変わりましたが、その違
いになかなか馴染めず、いじめを受けたりもしました。

中学3年の時が一番鬱状態がひどく、受験勉強が憂鬱で
した。将来に対する不安もありましたが、担任が陰険で
目の敵にされてました。

何かあると家にもチクリの電話を入れてましたし、事務
室に連れて行かれて、目の前で親に電話であれこれ言わ
れ、帰宅してからさらに親に説教されたこともあります。

自殺願望も強く、担任を殺して自分も死のうと思うこと
もありましたが、それ以上に無気力で虚しさを感じて、
それこそ生きる屍状態でした。

高校で悪友と知り合い、あまりにも馬鹿げた行動をとる
ので、唖然とした後、うじうじ悩むのが馬鹿らしくなっ
て、それからは自殺願望はなりを潜めました。

自分で自分の生き方を決められず、大学受験の時は、母
のやってる宗教団体の大学に通う高校のOBから勧誘を受
けたことと、母から聞かされた祖母の言葉に従いました。

まだ僕が母のお腹の中にいたころに、この大学が創立さ
れることが発表され、

「この子がこの大学に行ってくれたらいいねぇ」

と祖母が言っていたそうです。

祖母は僕が小学6年の時に亡くなりましたが、大好きで
した。

しかし、推薦・一般でことごとく受験に失敗してしまい
ました。

高校3年の担任からは「浪人してまで行く大学じゃない」
と言われましたが、福岡の予備校の寮に入り、次の年に
は合格し、入学しました。

この1年間親元を離れて一人暮らしして、自分で物事を
考えるようになったのが大きな意味を持つことになりま
した。

大学は期待していたような環境ではありませんでした。
大学の寮では、親しさと馴れ馴れしさをはき違えた連
中だらけの12人部屋で1年過ごしました。

プライバシーも何もなく、手紙を開封するところまで
はさすがにしませんが、中身を鍵のかかる引き出しに
入れて、封筒を本の間に隠していましたが、席を外し
て戻ってくると、封筒が引っ張り出されて机の上に置
かれていたり。

事あるごとに

「お前はすぐ本気になる」

と言われ、何も言わなくても顔さえ見ればこの言葉を
言われるようになり、何を言っても無駄だと感じて、
もう相手にしなくなると、今度は

「お前は自分の殻に閉じこもっている」

と言われました。

勝手に「お前はすぐ本気になる」というレッテルを貼っ
てその中に押し込めておいて、今度は殻に閉じこもっ
てる。呆れてしまいます。

2年目からはアパートで独り暮らしを始めて解放され
ましたが、この宗教団体が信者を歯車にすることを露
骨に表明していて、違和感を感じてました。

また、母と祖母の影響で入学しましたが、その母が大
学1年の時に不倫から別居状態に。離婚するしないで
4年揉めて、こちらにも呆れることに。

大学卒業とともに、信仰も卒業しました。

ちょうどバブルがはじけて就職氷河期の1年目にぶつ
かり、就職活動は困難を極めました。元々自己評価が
低いのにそんな自分を売り込むのが苦手で。

卒業しても就職先が決まらず、新聞のチラシを見て訪
問した小さな印刷会社にようやく就職が決まったのが
3月31日。翌日から社会人生活が始まりました。

転機が訪れたのは1995年。