いやぁ、自分の書いた字が読めないと言うのは
思った以上にめんどくさい。
だが書くしかない。
生麦事件から薩英戦争へと発展するが、
西郷はこのときは、まだ遠島中であった。
西郷を呼び戻した久光は、
軍賦役兼諸藩応接係と云う事実上の薩摩藩の全権を
西郷隆盛に託した。
その後の薩長同盟結成から大政奉還に至るまでは
あまりに有名であるし、先生も細かくは説明しなかった。
それと、何より私自身が「ウトウト中」であった。
で、話は眠気が醒めた明治維新以降に飛ぶ。
一度は鹿児島に帰っていた西郷を天皇が呼び戻す。
東京へ戻った西郷が中心となって廃藩置県、版籍奉還をやり遂げた。
ちなみに、最初の廃藩置県時点では「3府72県」だった。
今、現在の「1都1道43県」になった時系列を書く気力はないが
こんなもんは時代のニーズと共に変わって当たり前だ。
変わるのが自然だ。変わらん方がおかしい。
大阪都構想にイチャモンを付け
「大阪市が地図から消えてしまう」などとセンチメンタルな訴えを
もっともらしくして、一方では市役所職員の悪行の数々には手も付けず、
堂々と二重行政を行っていた前大阪市長、否、「※前組長」の気が知れない。
(※は5月15日「大阪市役所組」参照)
http://ameblo.jp/central1961/day-20120515.html
廃藩置県から既に140年。
今の時代に西郷さんがいたら大阪都構想はもちろんのこと、
直ちに「廃県置道」を行って道州制を敷くに違いない。
さて、閑話休題。
明治4年11月。
岩倉具視や大久保利通、木戸孝允らが
「岩倉使節団」として日本を二年間離れた。
この間西郷、板垣退助、山県有朋らが留守を預かった。
そのトップはもちろん西郷隆盛だった。
この間は、極力なにも行うなと云う命令が出ていた。
しかし、西郷さんは暦を太陽暦に改めたり、
学校制度、警察制度、国立銀行設立、徴兵制などなどやりまくった。
明治6年9月、一行は帰国して、ビックリ。面白くない。
そりゃあ、帰って来たら
カレンダーまで変わっていたら驚くに違いない。
学びに行った方が浦島太郎になってしまう。
こうして同じ下加治屋町で生まれ育ち
二人三脚で徳川を倒し明治維新を成し遂げた
西郷と大久保の関係は完全に途絶えた。
ここで出てくるのがあの「征韓論」である。
歴史の教科書的では、
西郷が武力をもって朝鮮を開国させようと主張したのに対し
欧米を見てきた国際感覚を身に着けた大久保がそれに反対。
大久保の主張が通った。
敗れた西郷は政府を去ったと教わるが
事実はそうではないのではないような気がする。
私みたいな一夜漬けの素人がどうこう言ってもしょうがない。
ここに二つ「征韓論」のサイトを付けたので皆さんでご判断いただきたい。
幕末の一番いいところをカットしてしまったが、ここまでが一区切り。
残るは西南の役と、
初日に「後で書く」と書いてしまった、朱子学と陽明学の違いが
明治維新を成し遂げる原動力になったと言う話である。
おっと。もう一つ。
庄内藩の人が西郷さんをどう書いたかも殆どまだ書いていない。
明日も終わりそうにないな。