宇宙は便利屋ではない | 裏宇宙からの遺言 -悟りと覚醒のプログラム-

裏宇宙からの遺言 -悟りと覚醒のプログラム-

道の道とすべきは常の道にあらず。名の名とすべきは常の名にあらず。無は天地の始に名づけ、有は万物の母に名づく。

※削除していた過去記事を再アップします。代理人

宇宙にお任せ系スピリチュアルが、ますます暴走している。
最近は単に「願望や行動計画は立てるな」と主張するのみならず、人生上で起こる諸問題に対してまで、「解決しようとせず、宇宙に丸投げしよう」と言い始めている。

ちなみに、私が「宇宙にお任せ系スピ」と呼んでいるものは、悟り系の非二元ノンデュアリティとは全く別物である。
両者の次元や方向性が違うからだ。

以前から悟り系スピでは「問題は無い。全て完璧」と唱えていたが、これはあらゆる価値基準を除外した時の見方であり、根源論である。
故に現実的レベルの問題解決とは無関係。
両者に接点はない。

つまり何の関係もないわけだから、冷静に判断できる人にとっては「薬にも毒にもならない」というわけだ。

だが、宇宙にお任せ系スピは違う。
現実レベルの問題解決さえ「宇宙に丸投げしよう」と説いている。
つまり「問題は無い」という概念を、現実世界にも強引に結び付けているわけだ。
その影響は甚大である。薬にならないが、毒にはなる。

あまり言いたくないが、これはもはや「カルト」「危険思想」「〇〇教唆」と言っても過言ではないと思う。
(一部を伏字にした)
最悪の場合、命にも関わる話だからである。


生きていれば、問題が起こるのは当たり前。
だからこそ、適切に解決することが大切なのである。
スピの抽象論だけで太刀打ちできるものではない。

私・エンライトは過去に何度か命を落としかけた。
とある事件の時は、瞳孔が開き、心臓も止まった。
もしそのとき家族や医者が「宇宙にお任せ系スピ」を実践していたら、私は今頃、生きていなかっただろう。
つまり「死」である。


大木ゆきの女史
「手を打とうとすることで、かえって望ましくない方向に物事は流れる。だってその出来事を問題視しているから手を打とうとするわけでしょ。
この問題視こそが、その出来事を問題化していくんですよ。
私はそういうこと以前いっぱい体験しました」


一個人の体験に過ぎないものを一般論にすり替えている。
世の中には、問題に対して早めに手を打ったことで状況の悪化を食い止め、終息した事例が沢山ある。


「問題が起きても、別にまずいことだって思わなければ、そんなに問題にはならないんですけどね。
どうもそういう問題だって捉え方から行動を起こそうとする習慣が人間にはあるようなので、気づかないとそのスパイラルにはまってしまう」


「宇宙にお任せしておいた方が早い。いちいち気にしない。放っとく。
宇宙に丸投げグセをつけよう(笑)」


交通事故で大怪我をしたら、病院で治療を受けるだろう。
家が火事になったら、消防署に連絡し、消火活動してらわなければならない。

問題を問題だと思わずに、宇宙に丸投げすれば、勝手に鎮火するのか?
勝手に怪我が治るのか?
命にかかわる緊急事態の時に、スピの認識論など通用しない。

たとえ軽い問題であっても、それを甘く見たり、無視していれば、やがて手に負えないほど深刻な問題に発展してしまう可能性もある。


「本当は起こってることって、今の自分には分からなくても、これもこれで必要なことなんですよ」 大木ゆきの

現象化のシステムを観照すれば、全ての出来事は必然的に起こっていることに気付く。
その意味では確かに「必要だから起こった」と言うことが出来る。
それは間違っていない。正しい。

だが、現象化した問題は本質的に「解決されるため」に現れたのである。
ならば、それを真っ直ぐに受け止め、解決することが前提だろう。

それは自分自身に対する誠意でもある。魂レベルのテーマ・課題にも合致する。
問題を根っこから解決するならば、業の清算につながるし、人としての成長にもつながる。
スキルアップすることも出来る。

つまり問題に直面した時、「なんでもない」などと本心を誤魔化すのではなく、前向きに取り組むことが大切なのだ。

「人事を尽くして天命を待つ」
人間としてやるべきことをやらずに、天命のみに任せるのは、ただの怠け者の理屈である。

まして人様にそんな教えを説くのは無責任きわまりない。
問題の種類や規模によっては命にも関わる。
怪我の治療も、火災現場での消火作業も、問題を問題として認識するからこそ、出来ることなのだ。

関連記事
問題は「解決されるため」に訪れる


大木ゆきの女史は、
「宇宙は探し物のありかまで教えてくれる♪」
「宇宙は最適なタイミングで洗車までしてくれた」
「宇宙って本当にすご~~~い」

と宇宙の凄さを、これでもかこれでもかと強調し、連日、読者のマインドにその観念をインプットすることに熱中している。

宇宙が洗車してくれた?
関東地方で降った雪が、車の汚れを落としてくれたらしい。
だがこの降雪は関東地方の多くの人に影響を与えた。
当然、大木ゆきの女史ひとりの為に雪が振ったわけではない。単なる自然現象だ。

たった一人の女性の車のために、なぜ多くの人の生活や仕事を犠牲にしなければならないのか?
何故たった一台の車を洗うために、多くの人を巻き込んで迷惑をかける必要があるのか?


いくらなんでも話のコジツケが過ぎる。
異常な考え方を異常とも思わないのはヤバイだろう。
この件については「次元別の役割とステージ」という記事の中でも検証している。

最近のスピリチュアル界は、お手軽・お気楽スピが急増している。
だが、宇宙を便利屋のように扱う人は、真の意味で宇宙を信頼していない。尊敬もしていない。
根っこに奴隷思想がある。

意識的に「宇宙の流れのままに任せよう」としても無理である。
それは本来、生きる指針ではなく、結果的に訪れる境地に過ぎないからだ。
大乗仏教においては、非黒非白非黒非白異熟業と呼ばれる境地であり、既に聖者のステージに至っている。

老子が説いた無為自然も同じである。
極めて高い境地であり、一般人が実践できるものではない。
せいぜい「任せたつもり」のムードメイキングや自己暗示で終わるだけだ。

宇宙の高次元エネルギーは非常に細かく、精妙であり、人の行動に直接大きな影響を与えることは無い。
人の行動を支配しているのはエーテル次元のセルフイメージであり、自分の意志で積極的に願望を持たない限り、書き変わることは無い。
関連記事・可能性を制限するメリット

故に、宇宙に任せるだけの方法は、その人に何らポジティブな影響を及ぼさず、むしろ古い自己像やカルマに流され放題になる。

つまり「夢や目標なんか捨てて、宇宙に全て任せよう」というスピは、いずれ我々の人生に深刻な悪影響を与えてしまう。
今スピ界にはそんな問題が蔓延している。
こんな教義がまかり通る原因の一つに、スピ界に蔓延する「ある迷信」が挙げられる。

「問題にフォーカスすれば、問題が増幅されてしまう」
という迷信である。

確かに問題に意識を向けるよりも、ポジティブな要素のみに意識を向けたほうが良いケースはある。
だが、問題に意識を向けて解決したほうが良い場合も多い。
つまり、ケースバイケースなのだ。

「意識したところにエネルギーが流れる」という法則がある。
ここで重要なのは、そのエネルギーの質である。

観照の意識をもって問題にフォーカスすれば、問題は解放される。
ヒーリングの意識をもって問題にフォーカスすれば、問題は癒される。
だが、自己否定・自己呵責の意識をもって問題にフォーカスすれば、問題が肥大化してしまうだろう。

先ほどの消火に関する話が参考になろう。
燃え盛る炎に向かって放水したり、消火液をかければ、鎮火に向かうはずだ。
だが油をかけたら、どうなる?
文字通り「火に油を注ぐ」という結果になるしかない。

つまり、問題にフォーカスすること自体が悪いのではなく、どんな意識やエネルギーを注ぐかが重要なのだ。

我々は現実世界に生きている。
スピの観念論も結構だが、現実を無視した指針は、かえって問題を大きくしてしまう。
場合によっては命取りになる。
十分に注意して戴きたい。