悟りに囚われない | 裏宇宙からの遺言 -悟りと覚醒のプログラム-

裏宇宙からの遺言 -悟りと覚醒のプログラム-

道の道とすべきは常の道にあらず。名の名とすべきは常の名にあらず。無は天地の始に名づけ、有は万物の母に名づく。

なーんかこう、悟りの世界も百花繚乱の様相を呈してますな…。
今度はこういう主張を見かけた。

「悟りとはゴールではなくスタートです。悟りをゴールだと思った人は、この現実世界のことに関心がなくなってしまいます。
高尚な精神世界に没頭してしまうのです。
そして当人は、その
『高尚』な精神世界こそがマインドの生み出す幻想の世界、つまり自分自身が『価値がない』と思っていることに囚われてしまっていることに気付けない。
空観の落とし穴です」



ネットを少し調べたら、全く同じ教えを説いてる指導者が大勢いることに気付いた。
なんなんだ、これは…。
悟り系スピリチュアル界の末期症状?

現実世界に関心が無くなっても良いと思うけどね。
何か問題でも?
全てがマインドの生み出す幻想ならば、それは「価値がない」という観念だけではない。
「価値がある」という考えも幻想なのだ。

たとえ悟りをゴールだと思わなくても、現実世界に関心が無くなる人はいる。
そう。ゴールだと思う・思わないは全く関係ない。
「悟り」と「思い」は関係なく、ただ訪れるものであるからだ。

悟った後も現実世界に関心を持ち続ける人もいるし、関心が無くなる人もいる。
ただそれだけ。
思考でコントルールできる事ではないのだ。
他人がいちいち批判することではない。


悟りにスタートはない。
ゴールもない。
それはただ在るだけであり、道(タオ)そのものである。
故に、スタートだのゴールだの言ってる人は「私は悟っていない」と自白したようなものだ。


空(くう)の悟りに至ったと自認する人たちが全員本当に悟っているかどうかは別だが…。
大乗仏教の業論には欠陥があるんで、修行僧も変に囚われてしまう可能性はある。

「悟り」と「観念」はまったく異なる。
観念は必ず囚われを生み出す。
「価値がある」「価値がない」…どちらの観念であっても囚われを生む。
だが悟りは単に在るだけだ。

本当に悟ったならば、囚われは消滅する。
存在のすべてが無意味であることを知った人は、そこから複数の道を見出すことになる。
「価値がない」という観念に囚われている状態は、本当の悟りではない。

いや、悟ったとしても、解脱(げだつ)はしていない。悟りと解脱は違う。
解脱すれば、囚われは消える。
何かを知ろうとする思いも消滅し、心が満了するからだ。

存在に意味が無いことを理解するだけではなく、それに対する囚われも無い。
つまり、全ては無価値だという「観念」ではなく、単に無価値だったことを純粋に悟るだけなのである。

この違いが分かるだろうか? 似ているように見えるが、実は違う。
この微妙な違いは大きい。


完全に囚われが無ければ、関心も湧かない。
いや、もっと正確に言えば、機械的な反応がなくなる。
よって生きることへの執着もない。

執着が完全に消えれば、生命を維持する肉体機能も停止する。

肉体を維持する力…、すなわち生きる力とは本質的に「囚われの力」であり、エゴなのだ。
命を保護・維持する力が働いているため、人体の免疫機能のように、雑菌やウイルスを殺してまで肉体を維持しようとする。

故に、悟りながらも生きる道を選んだ人は、敢えて囚われの状態を作り出す。仮の価値・仮の意味を作る人もいる。
だがそれが「仮のもの」という事実に気付いている。
そして意図的に作り出した囚われによって、生命に必要なエネルギーを確保する。

つまり、この世に価値を見出し、生きることを選択した人こそ囚われているのだ。
もちろん本人は「囚われている」ことに気付いているので本質的には囚われていない事になり、やはりその人も覚醒者だといって良い。

つまり、悟っても現実世界に関心を持ち続ける人は、このタイプに属する。
もし囚われに気付いていない場合、悟りにすら至っていなかったことになる。

だが、観念ゲームの世界に没頭し、繰り返してきた者は、真に悟ることは出来ない。
冒頭のスピ指導者のことだ。
悟りがゴールになった者に対して「囚われている」などと誤解してしまう。


無明庵EO氏が宇宙の全ての存在に意味が無いことを悟り、絶望したというエピソードがある。
本当に悟った人は、そこから道が分かれる。
死に向かう道か、生きる道か…。

感情や感覚を止滅させ、死に向かう道は、解脱に直結する。
「生きているのに死んでいる」という状態になる。心の機能が停止したからだ。
これが聖者パタンジャリが伝えたラージャ・ヨーガの次元である。

この境地に至った者は、肉体の死・すなわち肉体から離れた瞬間、涅槃にそのまま移行する。

仏教にも同じような教えがある。
鍵は純粋観照だ。
上座部のようにヴィパサナー(自己観察法)を採用する宗派もある。

だが仏教では無我説を説いているため、自己理解が不十分になる可能性がある。
いくらヴィパサナーを実践しても、人の個性を無視した画一的な教義に囚われれば本当の解放は訪れない。

ヨーガでも同じ問題が起こり得る。
ヨーガの身体理論には、肉体、微細身(アストラル)、原因身(コーザル)しかない。
エーテル体やメンタル体が無いわけだ。

その理由を洞察すれば、ヨーガの真の目的がよく見えてくる。
ただし、ヨーガでは真我説があるので、本格的な自己理解の道に進める行者も多い。
ヨーガにおける真我とは純粋観照者のことである。


たとえ悟っても、自我マインド(エゴ)や感情は残る。マインドが完全停止している人は少ない。
私だってエゴの塊だ。笑
ただ私はその事実にいつも気付いている。

大悟に至って表情(感情)を失う人もいる。
感情どころか五感などの感覚すら止滅するのだ。
自然に訪れた結果だから、演技でもなんでもない。特に解脱系ではね。

それは決して「悟りはゴールだ」という思い込みが招いた結果ではない。
自動的に感情・思考・感覚が止滅するのである。

修行体系の違いにも左右されるが、通常、悟りの修行途上ではむしろ喜怒哀楽が豊かになるし、感覚も鋭くなる。それも大事なことだ。
チャクラからの信号は、感情を通じて現れやすい。だから粗末にしない方がいいだろう。

ただし、心の傷やカルマが原因の感情もあるんで、そこは注意深く観察しよう。

まあ、そこから先が大事だけどね。
どんな感情が湧こうが、自分を責める必要は無い。逆効果になるからだ。
真面目な人ほどその罠に陥りやすい。自己逃避している証拠だよ。

気付いたことを本当に受け入れ、認めた人は、そういう自分を癒すプロセスに入る。
全てが満了すれば、心の機能は止滅する。

エンライト@太古の道先案内人