悟り系スピリチュアルの弊害 | 裏宇宙からの遺言 -悟りと覚醒のプログラム-

裏宇宙からの遺言 -悟りと覚醒のプログラム-

道の道とすべきは常の道にあらず。名の名とすべきは常の名にあらず。無は天地の始に名づけ、有は万物の母に名づく。

「悟りを得たい。覚醒したい」
「だから最適な方法を教えてください」

というメールが相変わらずよく来る。

そんなに覚醒したいなら、それ専門の指導者に質問し、指導を受ければいいだろう。私の役目ではない。
私がブログで説いているのは、あくまで各自のハートの願いを叶える道である。
その道を通じて、結果的に覚醒する人もいるが、それはその人がそういう時期に来ていたからだ。

覚醒が訪れる「時期」は本人の魂のステージによって決まるため、指導者が干渉することは出来ない。
当然、私が決めることも出来ない。

覚醒の道をハートが嫌がっている場合、その思いを尊重する事こそハートを大切にする道だと言える。
そんな人が強引に覚醒の道を進むなら、ハートを虐待するのと同じになってしまう。

「どんな修行をすれば良いのか?」という質問もよく受けるが、大切なのは方法論ではない。
貴方が覚醒を求める動機は本当に100%の純度だろうか?
全ての幸福が瓦解し、消滅しても、真実を求め続ける覚悟があるのだろうか?

覚醒するには純粋観照の目に照らすことが必要だが、彼らはいずれ「ある事実」に気付くだろう。
何かを誤魔化すために覚醒を求めていた、という事実に…。

覚醒や悟りの道は、全てを捨て去る道だと言える。
だから何かを誤魔化している時点で、その人には真の覚悟がなかったことになる。
自ら覚醒を遠ざけていたのだ。

1+1=2
というような、誰がやっても同じ結果が出るような世界ではない。
人間の心や命はそんなに単純ではない。

貴方は、指導者に「こうしなさい」と言われて、100%その通りに出来ますか?
誰もそんなこと保証できないだろう。
瞑想一つとっても、日によって心理的・霊的・肉体的なコンディションが異なるはずある。

覚醒の道とは廃人・死人の道である。
私も廃人になりかけた。ブログで説明したこともある。
だが一番肝心な部分は敢えて書いていない。

ここは不特定多数が読むブログだ。廃人の道を安易に説くことは出来ない。
責任が取れないからだ。
私がこのブログで最も力を入れているのは、自分自身に向き合い、ハートを生きる道である。

だが覚醒とはそれを超脱したステージなのだ。
人によっては、ハートを生きるプロセスを通じて覚醒することもあるが、私が保証できることではないし、保証すべきことでもない。
人様の「魂の旅」を応援することは出来るが、あくまで応援だけである。


私が心底がっかりするのは、何の覚悟も無い人が平然と「悟りの方法論」を求めて、その手のメールをしてくるケースが後を絶たないことだ。
記事をきちんと読んでいれば、到底そんな質問など出来るはずがない。

もちろん、どんな読み方をしようと、その人の自由である。
軽い気持ちでもよいし、覚悟がなくてもいい。
そもそも、何の役にも立たない覚醒のために大切な人生を捨ててしまうなんて、その方が狂っているだろ。笑

だが、読むだけならまだしも、コメントやメールまで送ってくるならば、私の世界に積極的に関わろうという意志があることになる。
その様に見做されても仕方ない。
ならば、それ相応の覚悟を持っていることが前提ではないのか?

私がどんな思いをして、悟り系スピを批判してきたか?
それは単なる中傷ではない。
私自身が廃人になりかけたのだ。

その思いや経験を少しも分かろうとせず、ぬけぬけと「悟るにはどうすればいいのですか」などと質問してくる。
まあ、これも悟り系スピの商売人たちの「負の遺産」なのだろう…。
安易に悟りを求めたがる人種を大量生産してしまった。

私が以前、魂の声を透視する件についてアメーバなうで呟いたところ、早速「私の魂の声を透視し、アドバイスして下さい」というメールが何通も来た。
だが私は事前に、こうも呟いていた。

「読者への透視は中止することにした」
「今後は限られた数名の弟子のみに個別指導する」
「殆どの人のマインドは曇っており、魂の方向性とかけ離れている。だから魂の言葉を伝えても、その意味を理解できないだろう」
「実際、以前は質問者の魂の声を翻訳して伝えていたが、『何を言われているのか分からない』という反応が返ってくる」


はっきり説明していたわけだ。
それにも関わらず、透視の依頼をしてくる人が次々に現れる。
遠隔ヒーリング、加持祈禱、カルマ解消、霊障解除(除霊・浄霊・救霊・昇霊など)の依頼も続々来る。

私の言葉がどこまで伝わっているのか…、強い疑問を感じ、虚しさを覚えたものだ。
マインドで簡単に理解できるレベルの言葉さえ、まともに理解できない。
そんな人が「魂」の声を理解できる筈がないだろう。

私の時間は無限ではない。
体力もエネルギーも無限ではない。
故に「言っても無駄な人」に対しては、時間や生命エネルギーを費やしてまで透視アドバイスなどしたくない。


今回の記事の内容は、今回が初めてではない。
以前も同じような警告記事を書いていた。
現在この記事は削除されています。エンライト代理人

辛辣な文体だったが、ブログ内だからそういう書き方をしたに過ぎない。
個別の返信メールでは、もっと優しい表現を使っているし、詳しく説明している。

だが、私がどれほど時間と労力をかけて返事をしても、伝わらない人には全く伝わらない。
全ての努力が無駄になる。
まあ、努力する・しないは私自身の意志で選んだことだが、虚しさを感じるのも事実。

以前、ある読者からこんなメールも戴いた。

「エンライトさん、お返事ありがとうございます。おっしゃる通りですね。私にはそれほどの覚悟はありません。何があろうと、うろたえることなく、周りに振り回されることなく、楽しく暮らしたいだけです。
ただ ハートの道を生きるとは、どういうことなのか、今だよくわからないので、ブログをよく読ませていただきます」



ハートの道を理解しようとする暇があったら、その前に日本語を理解できるようになってほしい。
相手の状況を少しでも察することが出来る人になってくれ…と。
悟り以前の問題ではないか。

故に私は、例の警告記事を書いたのだ。
だが認識能力に欠陥のある人は、そういう記事さえ理解できない。笊の頭だから、一番大切なことが水のようにすり抜けてしまう。
その証拠に再び質問メールが届いたのである。

「エンライトさんの洞察の深さには驚かされます。この人は何者なのか?と不思議に思います。この間は質問にも丁寧に答えていただき、ありがとうございました。
それでまた質問ですが、クンルンネイゴンは知っていますか?
知っていたらですが、エンライトさんのご意見、見解をお聞きしたいです。暇があったら 気が向いたら宜しくお願いします」


二度目は無いぞ。二度目は。

暇があったら…とか、気が向いたら…という次元の話ではない。
言っても無駄だから、透視能力による本格的なアドバイスはしない、という事だ。

私はどんなに愚かなメールを貰った時も、最初は親切に返信することが多い。
だが二度目はない。
故に、私は次の返事をし、直後にこの読者のIDをブロックした。

「私の前回の返信メールを本当に理解していますか? 真に理解しているなら、何故そのような質問が出来るのでしょうか?
今の貴方に必要なことは、外側の指導者やメソッドについて知ることではなく、貴方自身を知ることでしょう。
貴方は相変わらず同じレベルの質問を繰り返しているんですよ。

多分、私と貴方は全く異なる世界で生きていると思います。
だから私のメッセージの真意が全く理解できない。
貴方は私の言葉を、都合良いように解釈しているだけ…と思います」


まあ、こんな忠告をしても「馬の耳に念仏」ということは分かっている。
この種の人は、外側に意識が外れるのが常態化しているため、どんな説得も効き目がない。
たとえ反省しても、すぐに病気がぶり返す。
強固な「思考の癖」だから。

そもそも私は「知識」を書いているのではない。
クンルンネイゴンについては、知識だけは知っていた。道教に伝わる覚醒メソッドである。
だが波動的に見て、私の道と全く異なるため、知識レベルのみに留めておいた。実践の経験はない。

故に、なんとも答えようがない。
私は評論家ではなく、求道者である。
実体験を通じて洞察し、気付いたこと・悟ったことをブログに書いているだけだ。


波動検出の技術により、例の質問者もクンルンネイゴンとの相性が良くない事は明らかだった。
いや、相性以前の問題である。
この人は2度目のメールで「私にはそれほどの覚悟はありません」とはっきり答えている。
ならば覚醒メソッドのクンルンネイゴンについて何を知っても意味がない。

それでも、どうしても知りたければ、このメソッドの正式な伝承者に質問すればよい。
それで十分だ。