現象界で生きるためのエネルギーは「下降」の質を有している。
地上に引き止めようとするエネルギーである。
だから死んだ後も、また生まれ変わるわけだ。
覚醒し、現象界から離れ、ニルヴァーナに回帰させるエネルギーは「上昇」の質を持っている。
そして最終的には、上昇や下降という二元性を超えた世界と融合する。
現象界で生きる力の軸は、「生命力」と呼ばれているエネルギーである。
魂の願いを現実化させるには、下降のエネルギーが役立つ。
だが、そのエネルギーに浸っているだけでは、上昇の質が育まれなくなる。
「魂の願望がすべて成就したのに、ニルヴァーナに帰還できない」という事態が起こり得るわけだ。
女性の忍耐力や生命力の強さは、そのまま覚醒の最大の障害物になっている。
生命は、自己保存の本能に支えられている。
釈迦はその生命力の正体を「煩悩の力」だと見破った。
「生きるだけ」で終わるなら、それで十分である。
ただし、悟りの道を歩む場合は、生命を越えるための覚醒因子も必要となる。
過去記事で「私は生の覚醒だけじゃなく、死の覚醒も視野に入れている」と書いたのは、そういう意味があったからだ。
下降のエネルギーを大切にしつつ、上昇のエネルギーも育んでゆく。
上昇の鍵を握っているのが、メンタル体の理知の力である。
そのエネルギーは、マインドの知性・論理性に繋がっている。
この力は男性原理の象徴とされている。
仏陀釈尊は女性の出家を認め、当時のインドでは珍しく男女平等の立場を取った。
これは単に画期的というレベルすら超えて、革命的だったと言える。
だが、釈迦が懸念した通り、女性の修行者たちは愛欲・独占欲・容姿などの煩悩に振り回され、苦悶し、なかなか進歩できなかった。
男性のほうが圧倒的に進歩が早かった。
ところが…
現代のスピリチュアルでは正反対の現象が起こっている。
女性のほうが上達が早い。
次元がアストラルだからである。
今のスピリチュアル界では、魂、真我、ハイヤーセルフという概念が大人気だが、真にその次元に至っている人は少ない。
アストラル止まりのスピリチュアルなのだ。
日本の伝統的なスピリチュアルにおいては、巫女・霊媒の次元がそれに相当する。
そこには本質的に、知性の力が無い。
故に、神主によるマネジメントが必要だったのだ。
もし女性性のままで進撃したら、コントロールが効かなくなり、暴走し、自滅したかもしれない。
日本の伝統的な精神は、巫女と神主の絶妙なコンビネーションにより、その生命を永らえたと言える。
私のスピ仲間でもあるI女史が、昨年、某セラピストのブログ記事を紹介してくれた。
そのセラピストも女性である。
「覚醒で悩み戸惑う女性へ」という題名の記事であったが、その内容を要約すると…
「男性のスピリチュアル指導者は、悟ったとか覚醒したと自称する人が多い。
でも女性は覚醒を公言する人が少ない」
「女性は感性が豊かで、生まれつき悟っている面があるし、多少は覚醒しています。だから女性にとって覚醒とは特別な体験ではないのです。
当たり前で自然なことだと感じるから、あえて覚醒者を自称しません」
「でも男性は頭でっかちで感覚が鈍いので、覚醒体験した時に大きな衝撃を感じます。
だから「エゴの死」とか「カルマの燃焼」という大袈裟な表現をしたがるのでしょう」
これに対して、I女史は冷静な指摘をした。
「悟りや覚醒という言葉には固いイメージがあるから、そういうのを好まない女性が多いだけでしょ」
身も蓋もない意見だなぁ。笑
…まあ、その通りだと思うけどね。
「悟り系以外のスピリチュアル話なら女性もたくさんしてますよ。天使の話とか無条件の愛とかオカルト系とか。
スピに夢中になるのも女性が多いでしょ」
女性は生まれつき感覚の豊かな人が多いので、感覚的な世界は「当たり前」であるにも関わらず、積極的・かつ大袈裟に語りたがる。
覚醒者を自称する男性以上の勢いで…。
特に多くの女性たちの女神願望やお姫さま願望は露骨である。
「女性にとって覚醒は当たり前の感覚だから、覚醒について語る人は少ない」という指摘が事実なら、なぜ女性はスピ感性の話に夢中になるのだろう?
覚醒という言葉が、別の用語に代わっただけである。
カルマの燃焼の件も然り。
それは本質的に、生命の重さに向き合う道なのだ。
カルマが重ければ重いほど (命の営みの歴史が深いほど)、カルマの燃焼と呼ぶに相応しい反応が起こるのが当然である。
決して大袈裟な表現ではない。
むしろ生命の歩みに対して、キラキラふわふわ系の軽い言葉で表現したがる多くの女性こそ命を愚弄してるのではないか?
なんというか…まあ…
劣等感の深い女性が増えたと、つくづく思う。
すぐ自慢大会が始まるわけだ。
それだけ女性性の傷は深いわけだが、真の癒しになっていない。
自信を持つのは大切である。
だが、エゴまで陶酔させたら意味がない。
スピリチュアルには様々な霊的存在が関わっているため、自己陶酔型のエゴが強い人は格好の餌食になる。
イミテーション・ゴッドの術中に嵌まる。
だからアストラルの壁を超えられない女性が多いのだ。
仏陀はその叡智の目によって、女性のことを徹底的に批判・糾弾したが、その理由を理解する必要があると思う。
まあ、多くの女性には既にそれが難しくなってしまったのだろう。
社会的に見ても、男性が少し女性批判をしただけで、すぐ「女性蔑視するな」という短絡的な反応を示すようになった。
「男女平等」「女性差別は許せない」
鏡は何のためにある?
スピ界には、男性的な知性やマインドの力を過小評価する人も多い。
それはお決まりの「女性の方が凄い」という優越感とセットになっている。
これこそ差別意識であり、男性蔑視であろう。
女性性は受容と調和の質…と言いながら、都合よいものしか見ない。
受容性の無さを自ら証明してしまっている。
スピリチュアルでは「自由」「解放」という概念が人気だが、その実態は全く自由ではない。
単なる反発・反動になってしまっているケースが多い。
ちなみに、例の女性セラピストは、次の発言もしていた。
「悟りや覚醒は、目指すものではなく、勝手に訪れるものです。そして、「それを分かる」から、「それを生きる」へと変わっていくのです」
結局このセラピストは、覚醒や解脱の世界を、「生きる」という枠内だけで捉えていたわけだ。
前提からしてズレまくっている。
覚醒は生きるための力にならない。
それは、ただ在るだけであり、生死を超脱したステージだ。
故に「分かるだけ」で十分である。
他に何の価値もない。
ちなみに、このセラピストはその後、大和田菜穂さんの本を読み、自我マインドが激しく抵抗したという。
混乱・錯乱状態に陥った…と。
結局そんなもんである。
別の女性ヒーラーも面白いことを書いていた。
「意識がシフトするにあたってスコーンとなるのは、男性的な体験なんじゃないかなと思う」
「覚醒意識って受容的だから、きっと女の人の方が覚醒意識に近いような気がします」
「男の人はちょっと覚醒から遠いので、そういうことで、あーだのこーだの騒げるんじゃないかな?笑
…あ、これって男性批判じゃないですよ^^」
どうやら今のスピ界は、
「生きるために必要な受容性」と「生を捨てるための受容性」すら区別できないアホを大量生産しているらしい…。
2016年01月18日にエンライトが発表した記事を再リリース。(美雨)
代理人の個人ブログ
「美雨のひそひそ、こちょこちょ」