メンタルブロックの本質は「幻」と言ってよい。
実体がないからだ。
ブロックの多くは、出来事への解釈から始まると言ってよいだろう。
否定的な解釈に囚われると、そのエネルギーが潜在意識にいつまでも残り、その人の思考や行動に強力なブレーキを掛ける。
だから私は、その意識のカラクリに気付き、理解することを勧めている。
ヒーリングを体験した多くの人が、「泣く」という現象を体験している。
根深いトラウマが解放された時である。
次元的には、アストラルの傷の癒しとなる。
だが、もっと本格的な解放が生じた時は、思わず笑ってしまう…という反応が起こりやすい。
「なーんだ。私は今まで、こんな下らない観念に囚われていたのか」
と気付くからである。
つまり、ブロック解除の奥義は、ブロック自体が(本質的には)存在しなかったことに気付くこと。
幻に過ぎなかったことを知ることである。
しかし、私はあまり根源論は言いたくない。
その本質がいくら幻とはいえ、自分を守ろうとする生命反応によるものだからだ。
幻・幻と強調してしまったら、生命否定になってしまう。
ブロック解除に否定的なスピラーもいる。
ブロックがある…という思考に囚われているに過ぎない、という理屈である。
だから、「ブロックなんて、あると思うな」と言うわけだ。
確かにその通りである。
私の最終的な結論は、彼らと共通している。
だが、そこに至るプロセスは全く違う。
私のスピリチュアルは観念ゲームではない。
「分かったつもり」の世界ではない。
実際に観て、徹底的に理解する。
腹の底まで落とし込んでゆく。
その姿勢が根底にある。
貴方の生活を振り返ってみれば、それがよく分かるのではないか?
本質的には全てが幻ではあるが、この世での一つ一つの体験は臨場感に溢れている。リアリティに満ちている。
とても幻とは思えない。
それで良いのである。
正直な感想だ。
貴方がもし転んで怪我をすれば、痛みを覚えるだろう。
美味しいものを食べれば美味しく感じるし、マズいものを食べればマズく感じる。
もし、本格的な悟りの道を歩き始めた人が、現実世界の現象をひとつひとつ観察し、幻であることに気付いたなら、それは真実の悟りである。
それを徹底的に行なったのが釈迦であろう。
貴方が実際に観察して真に理解する…というプロセスを経なかったなら、どうなるだろう?
まして「全ては幻」という教えを頭から信じるだけだった場合は?
…何ももたらさない。
少なくとも、何の役にも立たないし、意味が無い。
そこに残るのは、「全ては幻でーす。トラウマもブロックも存在しませーん」
と馬鹿の一つ覚えのように連呼するスピラーの姿だけである。
本当は何も分かっていない。
中には、なんらかの神秘体験を通じて、全ては幻だったという感覚を体験した人もいるかもしれない。
だがそれは、知識だけの人よりもタチが悪いと言える。
そういう人は、少なくとも「体験」はしているわけだ。
故に、そこから得た「全ては幻」という結論に対して何の疑問も抱かなくなる。
真理だと確信してしまう。
そこで早くも、洞察の目が閉ざされたことになるわけだ。
現代の自称覚醒者がカミングアウトする一瞥体験なるものは、殆どアストラル界が仕掛けたものに過ぎない。
真理どころか、それ自体が幻だったという、笑うに笑えないオチである。
だから、唐突に訪れる一瞥体験なるものに囚われるのは危険なのだ。
釈迦は四念処観を初めとした緻密な観察行を伝授したが、実際、ひとつひとつの観照プロセスをもって理解することが大切なのである。
現代の自称覚醒者のメッセージは、妙にふわふわしている。
地に足が着いていない。
叡智も知性も感じられない。
つまり、それが彼らの悟り体験の正体。
理解とは、理(ことわり)を解することをいう。
故に、真の理解や悟りには必ず理路整然とした知性がある。
現代の悟りメッセンジャーがどれほど熱心に
「ブロックなんか存在しません」
「カルマもありません」
「宇宙に任せるだけでいい」
などと唱えたところで、その虚像は既に暴かれている。
社会の仕組みをロクに理解していない人が、全ては幻だのなんだのと吠えても、その主張こそ幻に他ならない。
いま現実に「心の傷の痛み」を感じてるのに、究極論を持ち込んでも何の解決にもならない。
自己逃避である。
メッセージの拠りどころが中途半端な神秘体験にある者は最も救いがたいと言える。
その次にしょうもないのは、知識だけの人である。
分かったつもりの罠…というやつだ。
私のブログだって読者が何の実践もなしに理解しようと努めても時間の無駄だ。何の意味もない。
私のブログは全て実践が前提である。
とはいえ、特定の指導者や団体が教えるメソッドを実践しろ…と言ってるわけでは無い。
何を選ぼうと貴方の自由だし、選択権は全て貴方側にある。
私の仕事ではない。
ここで言う「実践」とは、貴方が貴方自身を理解するプロセスであり、そのために自主的に選んだメソッドのことである。
私のブログは決して貴方の軸にはなり得ない。
だが、しっかり実践しながら、他人のブログも参考にするのは良いことだ。
そういう姿勢の人は、既にブロック解除の本質にも気付き始めている事だろう。
自分に向き合うこと…。
気付きを重ねて、真に理解を深めること…。
すなわち自己観察そのものなのだ。
そこが分かっていない人は、あらゆるスピ概念を自己逃避の材料にする。
「私にはブロックがあるから行動できない」
「カルマがあるから、やる気が起きない」
正直こういう人は手の施しようが無い。
ブロックがやる気や行動力の障害要素になっているのは事実だが、最も大切なのは、前に進もうとする意志である。
PTSD(心的外傷後ストレス障害)を発症するほどの重いブロックがある人は、言い訳以前に「本当に動けない」のだから、別に考える必要がある。
ただその場合はまだ救いがあるかもしれない。
余計な言い訳が存在しないからだ。
深刻なのは…、本当は動けるのに言い訳ばかりで動こうとしない人である。
本人の自主的な意志で動かないだけ。
そういう人に限って依存心が強く、すぐ責任転嫁する。
「このメソッドは効果がない」
「あの指導者は駄目だ」
と勝手に決め付け、すぐ脳内完結してしまう。
だから、手の施しようが無い、と言ったのだ。
いくらブレーキを解除しても、アクセルを踏まなかったら、前に進めない。
前に進むには、まず自主的な意志が必要だ。
メソッドやセッションに頼りっきりでは、どうしようもない。
ブロックの存在を自分自身への言い訳にしている人は、一時的にブロックのことは忘れたほうが良いだろう。
在り方が 「逃げ」 になってる場合、何をやっても大した成果は得られないし、マイナスの影響が生じることもある。
さっきも述べたように、ブロック解除の本質は自己観察にある。
自己逃避とは方向性が真逆。
真摯に自分に向き合う道なのだ。
その点を勘違いしている人が多いのではないか?
自分の軸を思い出し、そこに基点を定めていただきたい。
エンライトの未発表原稿をリリースいたしました。(代理人・美雨)
代理人の個人ブログ。
「美雨のひそひそ、こちょこちょ」