虚空宇宙-生滅の法を解き明かす | 裏宇宙からの遺言 -悟りと覚醒のプログラム-

裏宇宙からの遺言 -悟りと覚醒のプログラム-

道の道とすべきは常の道にあらず。名の名とすべきは常の名にあらず。無は天地の始に名づけ、有は万物の母に名づく。

仏教では生滅の法を説いている。
諸行無常。
是生滅法。

それを極限まで追及したのが刹那滅と呼ばれているものだ。
万物は瞬間的に生じ、次の瞬間には滅するという。

それは物質の極微レベルの話である。
科学用語で言うなら素粒子、量子に相当するだろう。

そんな物質の生起と消滅がものすごい速さで繰り返されるなら、マインドの認識能力では到底追うことが出来ない。

マインドは通常、自分という存在を 「同一性を維持し、連続性ある動きをする生き物」 として認識している。
だが仏教では、それを錯覚だと見なすわけだ。

基本原理は映画に似ている。
最近はビデオ撮影の映画が増えたらしいが、昔ながらのフィルム撮影も多い。
我々は映画を見るとき 「動きのある映像」 として認識している。

だが、映画の各フィルムは相互に繋がっていない。
1枚目のフィルムに描かれているのは1枚の静止画である。
2枚目のフィルムも同じことだ。

映画作品には膨大なフィルムが必要だが、それらを超高速で順次スクリーンに投影することにより、まるで 「動く絵=動画」 のように見えるわけである。
仏教の倶舎論では 「草を焼く焔」 に喩えている。


刹那滅では 「動きのある物体」 に関し、それは個我の同一性を保ったままの動きではなく、生起と消滅を超高速で繰り返している…と説く。
人間の生命活動も同じこと。

その理論を極限まで突き詰めるなら、因果律さえ否定されることになる。

いま流行の非二元・ノンデュアリティ系スピでも存在の連続性を否定する人が多い。
因果律も認めていない。
万物は、瞬間瞬間に新しく誕生しているのだ…と。

だが何の原因もなく物質が誕生するはずはない。
何の原因もなく、消滅するはずもない。

今の非二元ノンデュアリティ系スピでは
「ただ現れた」
「ただ起こった」

という観念論を振りかざし、巧みに誤魔化している。

ただし今の非二元スピにおいても、因果律を認める人もいる。
少数派だけどね。
彼らは 「あらゆる事象や物質は生起した瞬間(結果が出た瞬間) にその原因も消える と主張している。

だから生徒に対しても 「過去を振り返るな」 「物事の原因を探すのは止めよう」 と説くわけだ。

しかし、それでは結局、因果律を否定したも同然ではないか?
原因が完全に消えるなら、そんなものは突き止めようがないし、現実レベルで役立てることも出来ない。

ところが仏教で本来説いてる刹那滅は、因果律に基づいているのだ。
生起と消滅を連続的につなぐ法則…という位置付けである。

つまり、一つ前の存在が 「因」 になり、次の一瞬の存在が生起される(果)…というわけだ。

ただし同じ刹那滅でも、それぞれの宗派で見解が異なる面もある。
有名なのは経量部と説一切有部の対立である。

説一切有部でも刹那滅は認めているが、現実世界にはやはり 「特定の物体の同一性が持続する現象」 がある。
その謎をどうやって解くのか?
長期的にはどんな物質も変化するが、短期的にはほぼ同じ状態が維持されるのだ。

たとえば20歳の若者がたった1秒後に老人になるわけではない。
故に説一切有部では、その謎解きとして、刹那滅の背後にある 「実体ある法則」 を説いたのである。


仏陀釈尊は諸行無常を説いた。
万物は常に変化する…と。
しかし、釈迦が説いた無常観は、後に登場する刹那滅の教えほど徹底されていない

当然だろう。
そんなものを徹底すれば、因果論の根拠すらあやふやになり、仏教の基本が瓦解してしまう。

生まれた者はいつか老いて死ぬ。
だが、さっきも言ったように、若い人がいきなり老人になるわけではない。
変化すると言っても、もっと長いタイムスパンなのである。

ある種の難病では、急速に老いが進んでしまう症例が報告されているが、さすがに1秒後はあり得ないだろう。

もちろんそれ自体は、生命が絶対不変 (常住) ということを意味しない。
もし不変であるなら、生れたばかりの赤ちゃんは、80年たっても赤ちゃんのままであるはずだ。
死も訪れないことになる。


今の非二元・ノンデュアリティ系スピ界では、「全体性」 なるものを絶対視する人が多い。
それは無限であり、絶対である…と。
ならば現象界での 「現れ」 のバリエーションだって、もっと豊富になっても良いはずだ。

人間もそう。
ある人物が次の瞬間には動物になり、そのまた次は果物に…。そんな現れ方をするケースがあっても良いはずだ。


だって無限なんでしょ?

しかし実際には、人間は人間のままである。
仙人は一瞬のうちに姿形を変える…という伝説があるが、それは極めて特殊な例であろう。

殆どの人は似たり寄ったりの人生を送っている。
個人個人の仕事は異なっても、寝て、食って、動く、という基本的な生命活動の在り方は 「共通」 している。
生老病死からも逃れられない。

結局、人という生き物は、人類共通の生命ルールに基づいて存続しているのである。
共通の法則であるから、現象界のあらゆる事象はパターン化され過ぎている…とも言える。

故に、全体性なるものを無限とする教えは、あまりにも無理があり過ぎるわけだ。
パターンや法則が極めて限られている。
無限性の欠片も見受けられない。

ただし、その全体性とやらを 「個々の構成要素の相関性」 という観点で見た場合は、確かに 「全体」 という事実に変わりはない。

万物は網の目のように繋がり合っている以上、たった一つの物質さえも他と完全に切り離すことは出来ない。
故に現象界宇宙はそれ自体が一つの 「全体性」 と言うことができる。
絶対的ではないが、全体である

今のノンデュアリティが説く 「無因」 とやらは不自然極まりない。
全体性における相互の関係性(因縁)が否定されてしまうからだ。

生滅や変化という現象は、直接的な原因 (因) と間接的な条件 (縁) が織りなすもの。
因果律である。
(ただし直線的で単純な因果律ではない。 あらゆる要素は網の目のように関係し合っている。縁起の法)


先ほど刹那滅について批判的に書いたが、完全否定するつもりはない。
だが、刹那滅とは所詮ミクロの世界の話である。
マクロの世界にそのまま当てはめても無理がある。

だから極端だと言ったのだ。

しかし、この世には常住不変なものが無いのも事実…。
人も動物も徐々に変化してゆく。
生老病死のように必ず滅するものだ。

もし因果律を否定するなら、一つの結果が次の原因…という関係性をも否定することになる。
故に、同じようなものが連続性をもって動く…というマクロ次元の現象すら成り立たなくなってしまう。

結局、因果律を否定するノンデュアリティは、現実世界に何一つ適用できないことになり、当然我々の幸せにもなんら寄与しない。
穴だらけの妄想論である。


エンライトの未発表原稿をリリースしました。(代理人・美雨)