悲痛な叫び | 裏宇宙からの遺言 -悟りと覚醒のプログラム-

裏宇宙からの遺言 -悟りと覚醒のプログラム-

道の道とすべきは常の道にあらず。名の名とすべきは常の名にあらず。無は天地の始に名づけ、有は万物の母に名づく。

生き続けたい!
私はまだ為すべきことを果たし終えていない!

そのような悲痛な叫びを聞くことがある。
何十年も生きてきて、身内の死に立ち会うこともあった。

仲が良かった友人の死をみとったこともある。
彼はその前夜、激しく泣き叫んでいた。

全てに共通しているのは、それが生命の叫びだったという事。

とてつもなく重いものだ。
生命の歴史に向き合わざるを得なくなる。
時間と空間に縛られることが宿命づけられた存在。その全てに…。


私はどんな最期を迎えるのだろうか?
先が長くないことは知っている。

だが、その先の「中身」は分からない。
何もかも満足し切って、感謝しながら旅立つのかもしれない。

満足は満足でも、その後でウンザリ感が生じる可能性もあるかな…。
「もうお腹いっぱいだ。何も食いたくねーよ!」と。笑

もし、やり残したことが沢山あった場合は、「まだ死にたくない!」と狂乱状態になるのかもしれない。

いずれにしても、世間的な尺度で「立派な人だった」と思ってもらえるような最期を迎えたいとは思わない。
ましてスピ的な意味での高尚さを感じさせるような言葉を遺したいとも思わない。


OSHOラジニーシが講話の中で、ある覚醒者の臨終エピソードを紹介していた。

その覚醒者の弟子たちは、ある事を期待していた。
覚者としての遺言が欲しかったのだ。

覚醒者としての…。

仏陀は無上の叡智を感じさせる遺言を残した。
「私は自己に帰依することをなし遂げた。汝らも自らを依処として、他人を依処とするな。法を依処として、他を依処とすることなかれ」

だから自分たちの師匠だって何か素晴らしい言葉を遺してくれるに違いない…と。



では実際の最期の言葉はどんなものだったのか?


「うん。この饅頭は旨かった」
「……」

弟子たちはどっちらけである。
おいおい…と。
だがOSHOラジニーシは、「この覚醒者は本物だ」と説明していた。


悟りの道とは理想的な人格者を目指すことではない。
ただ在ることだ。
また、それとは別に、自我の機能も残り続ける。

覚醒者が本当の意味で解放されるのは、肉体を離れた時である。


ただし覚醒者にも色々なタイプがある。
稀な話だが、生きながらにして最終解脱に至る人もいる。

そのような覚醒者は、自我がもうない。
一切の心の働きが停止しているのだ。
心が無いから、悪人にはなり得ないが、人格者にもならない。

ヨーガ経典では「生ける死人」と表現している。

覚醒していない人(普通の人)はずっと自我の心理機能が残り続ける。
生きてる時はもちろん、死を迎えても自我が残り続ける。
故にカルマの支配下にあり、輪廻の旅をぐるぐる繰り返す。

自我を残している覚醒者も、死の直前まで心が働いている。
だが肉体を離れた瞬間、全てが滅尽するため、輪廻も止まる。


過去記事で、人々が無智なジャッジをしたがる現実について説明した。
覚醒者が最後に何を語ろうと、覚醒ステージそのものを測ることは出来ない。
たとえどんなに情けない姿を見せようと…。

ただ、敢えて言うならば、その覚醒者の言葉に覚醒エナジーが伴っているかどうかだろう。

それは表面的に、崇高で尊厳に満ちた言葉であるとは限らない。
高度な叡智を感じさせるものであるとは限らない。

一休さんのように「死にとうない」というケースもあり得る。
まんじゅうを食べて旨かったら「うん。これは旨い」というケースもあるだろう。

だが、悟り系スピ界には、本質を観ることが出来ない「評論家もどき」がいっぱいいる。

必死な命の叫び……その重さを感じ取ることも出来ず、あまつさえ嘲笑する輩もいる。
そんな奴こそ、どうしようもなく精神が貧しいのだ。


悟りと人格(自我)は関係ない…という事が分からず、覚醒者の言動をいちいちピックアップし、検証もどきに身を費やし
「この覚醒者は本物だ」
「この人はニセモノだ」
とかなんとか、頭を忙しく働かせる。

単なる評論家もどきのままで終わりたいなら、それもまた自由である。
だが、自らも悟りの道を歩きたければ、真剣に自分に向き合う必要がある。

そもそも他人の覚醒レベルが気になって、あれこれ考えること自体、意識が外に向いている証拠である。滑稽極まりない。

他人のレベル以前に、貴方のレベルは一体どうなんだ?と。
それが最も大切なことだろう。



「私は自己に帰依することをなし遂げた」 仏陀釈尊
この教えは物凄く深い。
深遠な意味がある。

あれほど多くの弟子を抱えていた釈迦が、そう言ったのだ。
普通の器の持ち主があのような環境にいれば、意識が外側に向きっぱなしになるだろう。

批評家もどきの道に転落する可能性もあった。
または、自分を崇拝してくれる信者作りに熱中してしまう可能性もあった。

だが釈迦は、自己に帰依しきったのである。


みゅー