観念は消さなくていい | 裏宇宙からの遺言 -悟りと覚醒のプログラム-

裏宇宙からの遺言 -悟りと覚醒のプログラム-

道の道とすべきは常の道にあらず。名の名とすべきは常の名にあらず。無は天地の始に名づけ、有は万物の母に名づく。

今回は「〇〇しなくていい」系の記事を書くぞ。笑

悟り系スピリチュアルで殊更に問題視されているのが 「観念・信念」 である。
その罠に気付いて手放せ、という。

実際、我々の信念や観念は決して真実とは言えない。
それは特定の価値観・判断基準に基づいて、正しいか間違っているかを主観的に決めただけ。

善悪の基準もそうだ。
時代や国により、その基準は変わる。
絶対的なものでは無い。

では、物事を判断するための 「物差し」 を全面的に捨ててしまえば良いのか?
そうではない。
全ての判断基準を捨てたら法律に抵触するかもしれないし、まともな社会生活など送れなくなるだろう。


善悪の物差しがただの幻に過ぎないのは当たり前である。
だが、この世で生きてゆく上で 「善悪を知ること」 は大きな意味がある。

その物差しが真実かどうかが焦点なのではない。
今この世界で安全に生きる上で必要となる善悪を知って、理解して、活かすことに意味があるのだ。


悟り系・ノンデュアリティ系スピでは、全てが完璧であり等価だと述べている。
それにも関わらず、〇〇は手放そう…などと口うるさくアドバイスする人が大勢いる。

まあ…もちろん、要らないものを手放すのは大事なことだよ。
でもそれは、全ては等価…という認識に基づくものでは無い。

価値観・判断基準を手放すことに成功すれば、確かに全ては等価になるが、我々が生きてゆく上でそんな根源論は必要ない。
生きる以上、そこには必ず選択がある。

つまり、選択するための価値観 (観念) は必要だということ。
ただ気付いていればよい。
「これは観念だ」 という自覚である。


自我・個我・エゴと呼ばれているものも同じことだ。
それは手放すものではない。
ただ気付いていれば良い。

いくら悟ったり覚醒しても、この世で生き続けるならば、観念や道理の世界に戻るのが当たり前ではないか。


覚醒者のスティーブン・ノーキスト。
「個性やエゴは完全に消え去ることはない。
たとえ悟っても一般人と同じようにエゴは反応し、他者と交流する」

「だが悟った人は、自分がエゴではないことを知っている。
エゴを粉砕することが唯一の解放手段だと強調する流派があるが、実際には 「自分はエゴではない」 という認識だけが必要とされるのだ」

※詳細は過去記事「嘘を言いたくなかった人達」


多くのスピリチュアルでは、古臭い観念や信念を手放し、宇宙の全体性に身を任せることを重視している。
だが、その世界観は、一つの仮定に基づいたものに過ぎない。

彼らは、個我のあらゆる観念・信念を 「真実ではない」 と見なしている。
逆に、宇宙の全体性とやらに対しては、「絶対不滅の叡智」 だと信じる。

だがその信念には何の裏付けもない。
証明されていない。
全体性=絶対的なもの…と思い込み、それを前提にしているに過ぎないのだ。

それこそが自我の働きである。
自分の中で勝手に格付けしているわけだ。
古代インドのヴェーダ思想に似ているが、仏陀はその全てを超克した。
全体性さえも幻に過ぎない、と喝破したのである。

だから本来の仏教には、信仰的な要素はない。

信仰とは、絶対者に帰依する…という前提で成り立っている。
まあ、アニミズムのような信仰の在り方もあるが、欧米や中東では 「唯一の絶対者」 への信仰が主流である。


私がよく言う自己観察とは、信念や観念を消し去るための手段ではない。
ただ気付いているだけの話だ。
この世で生きる以上、信念や観念はどうしても必要だから、それ自体は手放す必要がない。

もちろん、身の安全や願望実現を妨げる信念などは消去する必要があるが、それは結局、別の新しい信念に取って代わられる。

つまり完全なる無信念の道ではなく、信念の質が変わるだけなのだ。

悟りの道を歩く者は、その信念が決して絶対的真理ではないことを知っている。気付いている。
それを捨てるのではなく、自覚的に活用すれば良いのだ。

信念・観念の非実在性に気付くという事は、観念自体をゼロ化することではない。
何度も言うが 「単に気付いているだけ」 である。


「この世で生きて行動する次元」「単なる観照者の次元」 を混同する者は、観念の溶解なるものを説きたがる。
何も分かっていない。

真我は純粋観照者だ。
そして行動者である自我の世界を観察している。
何の判断もなく、ジャッジもなく、ただ気付いているだけ…。

悟り系スピの人たちが陥りやすい過ちは、行動者の次元のあらゆる価値観や信念を否定してしまう事である。
観念を手放し、宇宙の全体性という絶対的叡智にサレンダー (降伏) せよ、と…。

あらゆる観念を否定してゆけば、最後に 「否定することが出来ない絶対的な真実だけが残る」 と…。
それもまた観念なのである。

無条件の愛や永遠の愛という概念も同じことだ。

それらの本質は単純極まりない信仰であり、無智がベースだと言ってよい。
彼らが感得しているのは真理ではなく、全体性という幻に対する帰依に過ぎない。


「鏡に映っているのは自分ではない。映っている者を観ているものが自分なのだ」 という言葉がある。
これが今のノンデュアリティ系スピの限界を表している。

鏡に映っているのは確かに自分ではない。
だが、鏡を見ている者も自分ではないのだ。

ヴェーダでは真我を絶対視するが、仏教では真我すら幻だと捉える。
この宇宙の全ての絶対性を否定し尽くしている。


美雨