私のブログでは説明の都合上、「○○系スピ」 「△△系スピ」 という呼び方をすることが多い。
悟り系スピ、自己啓発系スピ、霊能系スピ、占い系スピなどである。
今回は新たに、
「コントロール系スピ」
「ノーコントロール系スピ」
という分類を試みた。
一部の人は、ノーコントロールという言葉を聞くと、野球の 「ノーコン」 を連想するかもしれない。
ボールの制球力が悪い投手に付けられる不名誉なアダ名である。
だがスピの分野では、コントロール能力の強弱のことではなく、「最初から何もコントロールしない在り方」 という意味で使われる。
私はコントロール系スピの実践経験が豊富である。
常に変化する世界において、自分自身のバランスを維持・回復させるには、意識的に心身を調整する必要があるからだ。
ただし、このやり方には弱点がある。
コントロールする際の意識の在り方によっては、自己束縛を強めてしまい、本来の自由を損なってしまう場合がある。
人は元々、いろんなものにコントロールされている。
子供の頃は、親にコントロールされる。
躾や教育の名のもとに、余計な観念までインプットされてしまう。
大人になっても、その影響は続いている。
無意識に植え付けられた観念を使って、自らをコントロールしようとする。
本音だけで生きている人はいないだろう。
嘘も方便という。
本音だけなら、人間関係が壊れるし、仕事も成り立たなくなる。
自己承認願望に振り回され、良い人を演じ、自分で自分の首を絞めている人も多い。
自己肯定から出発したコントロールならば何の問題もない。
だが、現代人の多くは、自己制圧的なコントロールになりがちだ。
そんなことが長く続けば、ストレスもたまるし、心身の健康を損なうかもしれない。
ハートの声も分からなくなってしまう。
そのせいか、最近のスピ界は、ノーコントロール系が普及してきた。
全てのコントロールを手放し、真の自由を実現する方法である。
それ自体は特に問題は無いのだが、最近のスピ界には中途半端なインスタント指導者が蔓延しており、ノーコントロールの真の意味を誤解している。
そんな人たちが目につくようになった。
次の2つのフレーズをよく洞察して戴きたい。
1.「コントロールしていない状態が大切なのです」
2.「コントロールを手放しましょう」
方向性は似ているが、全く異なることに気付いただろうか?
1は、指導者サイドが既にノーコントロールの境地に至っていることが前提であり、その必要性を説明している。
2は、生徒側が未だに自己束縛的なコントロール状態にあることを前提としている。
だから 「それを手放しましょう」 というアドバイスが生まれるわけである。
非二元・ノンデュアリティ系の指導者も、ノーコントロールの教えを説く人が多い。
その場合、話の前提が根本的に異なるのだが、指導者側がその違いを理解していないケースが多く、様々な問題を生み出している。
非二元スピでは、そもそも 「個」 を認めていない。
つまり、コントロールされている自分はいないし、コントールを手放そうとする自分もいないことになる。
最近の非二元スピでは、「全ては全体からの現れ」 というフレーズがよく使われる。
だが、自分のあらゆる状態が自分自身を起因としたものではなく、全体の 「現れ」 に過ぎないのであれば、もはや何のアドバイスも生まれない。
貴方が一所懸命に自己コントロールに励んでも、「そんな自分は居ない」 とするのが非二元・ノンデュアリティ系スピなのだ。
ならば、貴方が何をやっても、どんな選択をしても、その全てがOK、ということになる。
凶悪犯罪に走っても…だ。
貴方が仮に自己コントロールを試みても、実際には何もコントロールしておらず、単に全体の「現れ」に過ぎない、と。
逆に、貴方がコントロールを手放そうとした場合も、それまた全体の現れに過ぎない…と。
つまり、どちらを選んでも、貴方の意思ではなく、貴方が生み出した成果でもない、と言うわけだ。
ならば、どんなアドバイスも無意味になってしまう。
目標や指針もすべて無効となる。
何をやっても貴方の責任ではなく、自由意思でもなく、全体が決めたストーリーに過ぎない、と言うならば…。
しょせん、今のノンデュアリティ系スピは、そんなもんである。
一部のスピでは、「夢や目標を手放し、全てを宇宙の流れにお任せしましょう」 と説いている。
だが、ノンデュアリティの世界観に基づくなら、夢を追いかける生き方だって 「全体の現れ」 ということになる。
「頭で考えず、直感のままに動きましょう」 という教えがある。
だが、ノンデュアリティに照らすなら、思考に振り回されている状況だって、全体の現れということになる。
それ故に、非二元・ノンデュアリティ系の指導者たちは 「全てが完璧で最善」 と説くのである。
だが、彼らの実際の言動はどうしたものか?
「コントロールを手放せ」 だの
「思考を手放せ」 だの
「夢や目標を手放せ」 だの
「ジャッジなんか手放せ」 だの…、
大きなお世話ではないか?
すべて宇宙が決めたストーリーであり、完璧で最善で等価だというなら、何故いちいち説教したがるのか?
放っとけばいいだろう。
貴方たちが指導者ヅラして、偉そうに口出しする筋合いはない。
普通の人にとって、夢や願望をもつのは当たり前である。
マインドの創造力を活用するのも当たり前である。
つまり、スピラーたちは、一般社会では何の問題にもならないような事さえ問題視するわけだ。
普段 「問題は存在しません。全ては最善です」 などと説いているくせに、彼らこそ余計な問題を生み出している。
自分の教えを自分自身が否定していることにも気付かないのか?
自己観察の基本すら出来ていない人は、そろそろ指導者のポジションを返上し、自己修行をやり直したらどうか?
コントロールには、必要なものと不必要なものがある。
寒い冬が来れば、人々は厚着をするだろう。
食事も、体が温まるものが中心になるだろう。
寒さに対抗し、体を冷やさず、健康を維持し、快適に過ごすためである。
これもまたコントロールなのだ。
精神的なことにも当てはまる。
他者との関わりの中で生きるなら、自分の思考や感情をコントロールしなければならない事が多い。
夢や目標を持って生きるなら、それを実現させる上で最適化された思考や行動力、自己表現力が必要となる。
つまり、この世で生きる以上、コントロールはどうしても必要なのである。
全てのコントロールから離れている人はいない。
コントロールには色々な種類がある。
ヨーガでは、呼吸法や体位法を通じて、自己コントロールの修行を徹底する。
それを通じて、心身がリラックスしてゆき、瞑想状態に入る。
だが、心身を無駄に緊張させてしまうコントロールもあるわけだ。
社会生活を壊すような思考や感情…、自己破滅的なコントロールもあるわけだ。
それは手放せばいい。
全てのコントロールを手放すのではなく、不必要なコントロールを手放せばよいだけの話。
ノーコントロールの原理主義者は、そこが分からない。
画一的な教えを押し付けてしまう。
それは指導者自身が 「ノーコントロールという観念」 にコントロールされているからだ。
真のノーコントロールに至っていない。
宗教の狂信者が、教義に囚われているのと同じこと。
ノージャッジ、今ここ、宇宙に身をゆだねる…、全てに当てはまることである。
スピリチュアル原理主義ほど馬鹿げたものは無い。
自分を解放する為のスピリチュアルが、かえって自分を雁字搦めにしている。
本末転倒である。
貴方はそんな愚を繰り返す必要はない。
スピの教えや指針に振り回されるのではなく、本質を掴んでいただきたい。
魂を生きる方向で最適化された自己コントロールを行なって戴きたい。
エンライトの未発表原稿をアップしました。
代理人・さくらのブログはこちら
です。