人も神も本質は同じである。
根源の 「一」 から分離・分霊したわけだ。
だが 「性質」 という面で見るなら、全てが同じ質とは言えない。
同じ質なら、そもそも分離する必要は無い>
「一」 のままで良いわけだ。
故に、万物には個性がある。
なにひとつ同じものはない。
神々にも個性がある。
人が神に接しようとするとき、まずその原則をわきまえる必要がある。
人それぞれ価値観や判断基準が異なるように、神々もそれぞれの価値基準を有している。
だが、いろんなタイプの神がいることを認められず、自分の信念・固定観念だけで神を測ってしまう人が多い。
神仏に感応するはずの霊能者さえ、自分の霊的信念が全てになっている人が多い。
多くの人は、神を理想化している。
自分勝手な理想像をベースに、神を判断・ジャッジしてしまう。
たとえば、
「神様は全ての人を愛してくださっている」
「神は愛そのものだから、決して罰は当てない」
「罰を当てる神は、本物の神ではありません」
このような主張をする人は、神の自由を奪おうとしている。
無意識的な支配欲だ。
そんな人がいくら神を熱心に信仰し、尊敬しても、エネルギーレベルでは 「侮辱」「攻撃」 に走っている。
人間社会を見てみたまえ。
おだやかで平和的な職種ばかりではない。
警察官もいれば裁判官もいる。
社会のルールに違反すれば、強制的に逮捕されることもあるし、裁判で有罪判決が下されることもある。
宗教や信仰の世界にも、当然そういう役割の神がいる。
当たり前ではないか。
根源神(?)ならともかく、相対宇宙の個々の生命体は、二元の法則によって生かされているのだから。
まして知的生命体なら、それぞれに価値基準というものがある。
そのへんの事情は人間界と何ら変わりはない。
それに加えて、人間界をはるかに超えた広がりもある。
規模が物凄く大きい。
人間の頭では想像も付かないような価値観や判断基準を持った神もいるかもしれない。
密教の天部など、かなり気性の荒い神仏が多い。
人間が無作法しただけで、強烈な障碍を食らわせる神もいる。
関東地方の某市役所に、ある神像 (掛け軸) があった。
この掛け軸に少しでも無作法しただけで、次々に人が狂死する事件があった。
現在は、修験者の青木実秀さんがその神の尊像を引き取り、毎日供養している。
私も20年前に拝受し、供養させていただいている。
伝統的な宗教では、天罰や神罰を強調する教えが多かった。
「地獄」という概念も定番である。
だが、現代の脳内お花畑スピリチュアルは、あらゆる脅迫観念からの解放や自由を掲げているため、「天罰は無い」 「地獄は無い」 と強調するものが多くなった。
だが、よく考えてみるがいい。
宇宙は広大無辺である。
故に、どんなに優れた霊能者やチャネラーだって、神々や宇宙のことを知り尽すことはできない。
その事実を謙虚に見つめるならば、安易に 「神様は決してバチは当てません」 という台詞は吐けない筈である。
貴方は一体どれほど神のことを知っているのか?
人間界の周りの人達の本心さえロクに知らないくせに、神々の本心を知り尽しているような台詞を吐くのは、傲慢にも程がある。
しかも本人は、その自覚さえ無いのだから、なおさら救い難い。タチが悪い。
私も神々の世界を知り尽しているわけではない。
だが、そんな私の貧しい体験においても、神々の世界は実に個性豊かだという事が分かったのである。
もちろん、罰を当てる神もいることが分かった。
まして、私がまだ知らない領域では、想像だにしない役割や性格の神もいるかもしれない。
関連記事「馬鹿こくでねぇ!」
ある霊能者がブログで、神社での作法について書いていた。
どんな行為が神に対して無礼に当たるのかを説明していた。
『私は写真を写したぐらいで「あんた!今写真撮ったよね」というような心の狭い神様に手を合わせているつもりはありません』
『神様・神様と言いながら、「これをしたら失礼になる」=「神の怒りに触れる」=「神様は心の狭い方」とするのは、どちらが失礼でしょうか』
この主張の裏側には、「写真に撮ったぐらいで怒るような神は、心が狭い」 という決め付けがある。
その方が失礼だろう。
人間に当てはめてみればいい。
Aさんは、容姿について馬鹿にされても、ぜんぜん気にしないし怒らない。
Bさんは容姿を馬鹿にされるとすぐ激怒する。
だが、Bさんの心が狭いとは言い切れない。
Bさんは容姿の話題には敏感に反応するが、性格面の話題の時は全く怒らない。むしろ反省する。
感情の導火線や価値基準は人それぞれ異なるのだ。
…神社での写真撮影の話に戻すが、撮るも撮らないも、全て人間側の行為である。
神が要求した事ではない。
その人間の一方的な行為に対して、神が許可する・しない…という反応が、心の大きさを測る根拠になるのだろうか?
なるはずがない。
人間側が勝手に特定の理想像や判断基準を持ち込み、勝手に判定しているだけだ。
この霊能力者こそ失礼極まりない。
そもそも神が 「高潔な人格」 とは限らないだろう。
もちろん、ここで言う 「高潔」 云々は、人間的な基準による。
故に私は、写真に写されるのを嫌がる神様がいたとしても、心が狭いとは思わない。
許す神あれば、許さない神もあり。
それが自然の摂理というものだ。
人間のエゴに都合良いものだけを受け入れるなら、これほど不自然で無礼な話はない。
先ほども言ったように、人間が抱く基準だけでは神を計り切れない。
故に、我々が今後、霊的世界に直面した時、不思議なことはまだまだ起こると言えるし(笑)、神への謙虚な姿勢を失ったやんちゃなお姫様も驚くような真相が待ち構えているかもしれない。笑
…あ、この霊能者の正体、バレちゃった? 笑
「15:00以降に神社やお寺に行くのは良くない…と人に言われたと仰る方が多いですが、このことについてもどうかと思います。
15:00以降に伺っても、社務所は開いています。
それを行かない方が良いと言うのは、営業妨害に等しいと思います」
「私たちが納めさせて頂くお金で屋根の修復をしたり、神職の方々を労うお給料が出ています。
それを勝手な解釈で人の足を遠のけるのは如何なものかと思います」
ならば「勝手な解釈」などと断定する根拠をきちんと説明すべきだろう。
私が知る限り、15:00云々は、道教の生気・死気の説から来ている。
正確には正午からだが、特に夕方にもなると死気が増える。
むろん、伝統的な物差しが全て正しいとは限らないが、少なくとも底の浅いものではないし、勝手な解釈でもない。
ちなみに私が、例のやんちゃな霊能者のブログに、批判コメントを投稿したところ、数時間後には削除されていた。笑
もちろん私のコメントは、今回の記事ほど辛辣ではなかったし、言葉を選んでいた。
結局、この霊能者さん、神の心の大きさを説いても、ご自分の心は狭かったようで…。笑
まあ、私だって人のことは言えないか。
私も自分のブログに珍客さんが現れた時は、そのコメントを削除することがある。
ただし私の場合、「記事のテーマに沿ったコメント」 「批判の根拠を具体的・かつ明確にしているコメント」 ならば、ちゃんと掲載する方針である。
今回はエンライトさんが2015年10月27日に発表した記事を再アップしました。
代理人さくらのブログはこちら
です。