この世はすべて相対的である。
二元的・相対的な法則によって全てが成り立っている。
それは 「条件次第」 ということでもある。
幸せな人は幸せ体験を生む各要素 (条件) に恵まれた、ということである。
故にその条件に変動が生じれば、あっという間に幸福は消えてしまう。
万物は、それを支え、構成する各要素によって成立している。
貴方が人間として生きてゆけるのは、人間として存在可能にさせる諸条件に恵まれたからだ。
その条件が一つでも変われば、もはや人間として存続できない。
この世に絶対的なものは何一つない。絶対的な幸福もない。
楽の裏には苦がある。
誰も生老病死の法則から逃れることは出来ない。
悟り系スピでは、その法則を超えようとする。
絶対的な至福に至ろうとする。
だがいくら頑張っても、意識レベルの話で終わる。
貴方の意識がどれほど大きな至福感を感じても、物質・肉体レベルでは生老病死から逃げることは出来ない。
釈迦も最後は病気にかかり、苦しみながら亡くなった。
反論する人がいるかもしれない。
「ヒマラヤの某聖者は数千年も生きている」
「中国にも数百歳・数千歳の仙人がいるらしい」
可能性としては、そういう人がいることも否定しない。
だが、完全なる不死はあり得ないと思う。
ある種の意識状態と生命エネルギーのコントロール術を使えば、数千年もの長寿を達成できるかもしれないが、「永遠の命」 はあり得ないだろう。
生まれたものは必ず死ぬ。
そもそも、不死の聖者についての話をしたがる人自身が不死を達成したわけでは無い。
仮に数千歳という超長寿者が存在したとして、誰もが真似できるわけでは無い。
どんな秘法を使おうと、まず 「使いこなせる人」 と 「使いこなせない人」 がいる。
ある意味、生まれつきである。
超長寿の聖者は、その様に生きる役割があったのだろう。
つまり特別であり、例外なのだ。
本来、人間という生命体は、数千年も生き続けられるようには構成されていない。
最近よく聞く 「不食」 も同じことである。
昔、インドには不食の女性聖者がいたという。
名をギリバラという。
ある日、ヨーガ聖者のパラマンサ・ヨーガナンダが、彼女に面会と対談を申し込んだ。
ヨーガナンダは、ギリバラの不食の秘密に切り込んだ。
貴方が人を不食に至らせる大秘法を実践しているなら、世界中の人々に、それを教えることは出来るか?と。
だが、ギリバラは固く断わった。
そんな必要は無い、と。
ギリバラもまた 「ある種の役割」 について言及している。
故に、その役目を持っていない人が無闇に不食を目指す必要は無いのだ。
釈迦やキリストは不食ではなかった。
不死でもなかった。
古今東西、悟ったといわれる聖者の殆どが不食じゃなかったし、不死でもなかった。
ギリバラによれば、延髄から宇宙エネルギーを吸収し、生命エネルギーに変換する秘法を授かったという。
だが、他の人が同じ秘法を実践しても、失敗に終わるだろう。
昔、日本の奈良県にも、不食に近いお婆さんがいたという。
そのお婆さんは信仰するお不動様からの指示で、いつも太陽に背を向けるようにしたという。
彼女もやはり延髄からエネルギーを吸収する術を感得したのだろう。
だが、誰もが実行できるわけでは無い。
不食と不死の境地を求めたヨーガ指導者・藤本憲幸氏もついに習得することが出来なかった。
変な例え話かもしれないが、スポーツの才能が無い人が一流のスポーツ選手を目指しても意味が無い。
自分だけの個性を受け入れ、真の才能に気付き、活かせばよいのだ。
魂レベルではそれが 「役目」 ということだ。
人は生の条件によって生き、死の条件によって死ぬ。
そしてその条件には全て表と裏がある。
二元性である。
たとえ意識が時空を超えて、全ての二元性を超越したとしても、肉体次元では二元法則を破ることが出来ない。
また、この世で可能な全ての体験も、二元的な各条件によって成立する。
故に、光があれば闇があり、楽があれば苦もある。
愛があれば憎しみもある。
貴方に幸福感や満足感をもたらすものは、同時に苦の原因にもなる。
美味しい料理を食べれば、満足感を覚えるかもしれない。
だが、何らかの事件や異常事態に巻き込まれ、何日間も食事が出来なくなれば、酷い空腹感を覚えるだろう。
素敵な異性に出会い、結婚した人は、踊るような幸福感に浸れるかもしれない。
だがその相手が突然病死や事故死をしたら、深い悲しみを感じるだろう。
幸福感をもたらすものが、そのまま絶望や悲しみの原因にもなっているのである。
そしてそれらの現象全てに 「時間」 というものが関わっている。
生老病死という法則も、時間抜きでは語れない。
悟り系スピがいくら 「時間はない」 「個は無い」 と説いても無意味である。
少なくとも現象界レベルでは何の役にも立たない。
新鮮な野菜や果物も、時間がたてばカビがはえたり、腐ってしまう。
ものすごい美男美女だって何十年も生きれば、肉体の老化が進み、見た目も老人そのものになる。
究極的には、魂レベルの願望さえも絶対的なものでは無い。
「体験」 の次元に属するものは全て本質的に幻である。
だが貴方が魂を満たすことなく、一足先にノンデュアリティの世界を求めても、無駄な努力に終わるだろう。
人生はショートカットできない。
魂が成就しない限り、魂の旅は延々と続く。
それは時間と空間という 「幻の力」 が働き続ける、ということでもある。
強力な拘束力を持ち、貴方に影響を与え続ける。
本質が幻とはいえ、馬鹿には出来ない。
まして悟り系のメッセンジャーの 「時間は幻」 という教えをいくら聞いたところで、時間の影響を無効化することは出来ない。
実際に魂の願望を満たし、体験しない限り、その本質を理解することは出来ない。
カルマも同じことである。
気付いて理解しない限り、その影響力から逃れることは出来ない。
ラーメンを食べたことがない人が、知識を動員してラーメンの味についていくら考えても、実際に食べなければ、真の理解はできないだろう。
故に、悟りや覚醒など求めず、今できることに集中すればいい。
ハートを満たし、深い幸福感を味わいながら生きてゆけばいい。
それで十分だ。
魂が成就しない限り、悟りのステージには至れない。
ただし、例外はある。
最近の宇宙レベルの次元上昇の影響で、唐突に覚醒体験する人が何人も現れてきている。
私のように、悟りについて偉そうに語る奴もいるわけだ。笑
だが、人類すべてが一気に覚醒体験することは無い。
そんな現象が起これば、宇宙のバランスが崩れてしまう。
まして全宇宙の全生命体が一挙に覚醒した場合、宇宙は存続できなくなるだろう。
呼吸のようにエネルギーを吸いこみ、排出する。
覚醒や解脱とは、この二元性の法則から離れることだ。
宇宙の存続に必要なエネルギーを供給しなくなることを意味する。
全てのエネルギー源が断たれれば、宇宙は消滅するしかない。
だが、そんな時期は来ていない。