ペトラはパルミラと並ぶ隊商都市で、紀元前2世紀ごろに遊牧民ナバタイ人が築いた岩山都市で紀元前3世紀頃栄えた。ペトラの都市は理想に近いものであったらしく、奴隷がほとんどおらず、貧困者がなく、王はいたって公平で秩序正しい民主的な政治を行なったと言われています。
建造物や彫刻群に古代東方文化とヘレニズム文化との融合が見られています。
しかし、自然条件が悪化したのと、ペトラを経由しない別の交易路が作られたことで都市としての力を失い、衰退の一途をたどり、やがて歴史から忘れ去られていきました。
この都市が再び日の目を見るのは1200年後のことでした。
19世紀にスイス人学者が古文書に書かれている“紅バラの街”を探して9ヵ月後についに発見しました。このエル・カズネ神殿が姿を現した時の感動は何事にも変えがたいものだったろうと思います。

ペトラの入口は、谷底を這うような狭い岩の回廊を抜けると突然、視界が開け、巨大な建造物が現れます。高さ30メートル、岩をくりぬいて築かれた「エル・カズネ~王の宝物殿」と呼ばれる建造物で、ヘレニズム文化とイスラム文化が融合した建物は見事というしかありません。また、遺跡にはやたらと葡萄の葉などの彫刻が目につきますが、これは酒を飲まなかったナバタイ人が、ヘ

レニズムの影響でぶどう酒を飲むようになった証拠だと言われています。

この神殿は『インディー・ジョーンズ最後の聖戦』のロケに使われた。ハリソン・フォード扮する考古学者のジョーンズ博士がキリストの聖杯を求めてこの神殿の中に入っていくシーンがあります。

当事は交易によって得た富が蓄えられていましたが、当然ながら現在はがらんどうになっています。壁は5彩の美しい縞模様になっています。

エル・カズネからさらに先に進むとカッパドキアで見たような岩穴住居のある場所に出ますが、ここには王家の立派な墳墓があり、その数はおよそ500にも及びます。
栄華を誇ったペトラも、106年にローマ帝国によって征服されたことによりその歴史を閉じました。


登録年:2000年

登録範囲:アッシジのサンフランチェスコ聖堂ほか、サン・ルフィーノ大聖堂、サンタ・キアラ聖堂、サン・ピエトロ聖堂などサン・フランチェスコゆかりの建築物郡


GW中は旅行、その後は様々な修羅場が待っていたため、すっかりBLOGをサボってしまいました。
復活第一弾は私の一番のお気に入りの街アッシジについて語ります。


古代からイタリアは城塞としての役割も兼ねて丘の上に街を作りました。不便な位置にあるため、開発から取り残されたが、それが幸いして昔日の面影を今に留め、詩情豊かな雰囲気を醸し出しています。時が止まったような小さな町々はただでさえどこか浮世離れした印象を与えるものですが、このアッシジは聖フランチェスコゆかりの聖地という先入観もあって、神聖さと同時にどこ

か懐かしい気持ちにさえさせられます。聖地でありながら、異教徒を排除しようといったような雰囲気はかんじられず、また三大宗教の聖地エルサレムのような宗教的緊張感も感じさせません。

薔薇色のレンガで統一された街は中世独特の暗さはなく、どこか包み込むように温かさを感じさせます。
扉や窓を取り替えて、屋根の上の邪魔なアンテナなど現代的なものを取り去ればそのまま中世の映画を撮影することができるのは驚愕ものでこれはもう奇跡と言ってもいいでしょう。

アッシジはイタリアの数ある街の中でも最も古い歴史を持つ町の一つですが、この街を世界的に知らしめているのは聖人フランチェスコの存在です。
 聖フランチェスコは1181年、アッシジの裕福な商人の息子として生まれました。
父の財力にものを言わせて、友人達と放蕩三昧の生活を送っていたフランチェスコですが、その彼に転機が訪れたのはペルージャとの戦争でした。
 当時のイタリアを支配していたのはヨーロッパの広範囲に強い影響力を持っていた神聖ローマ帝国でした。
 その時代、商人と職人を中心とした支配階級が新勢力として台頭し、その財にものを言わせて、政治的な発言力を徐々に強めていった。彼らは従来の封建体制に反発し、独立と自治を求め
て幾度となく帝国と衝突しました。そして、1998年、アッシジはついに神聖ローマ帝国の力の及ばない教皇領に支配権を渡す事になり、アッシジから追い出された帝国配下の貴族達はやがて、

アッシジと敵対関係にあったペルージャに亡命。政権奪回を図る彼らはペルージャを後ろ盾にアッシジに宣戦布告。それまで親の財力を背景に、思うままに青春を謳歌していたフランチェスコも防衛のために戦争に参加せざるを得なくなりました。元々騎士に憧れていた事もあって勇敢に闘いますが、やがてペルージャの捕虜となって1年も獄中に繋がれてしまいます。
 父が賠償金を払ってようやく捕虜生活から解放されましたが、元々、あまり頑健でなかった彼はこの過酷な捕虜生活ですっかり健康を害してしまい、帰国してからしばらく病床に伏してしまいま
した。
ようやく起き上がれるようになった彼を慰めたのは故郷ウンブリアの美しい自然でした。
 ウンブリアは陰を意味するラテン語のウンブラを語源とする、緑豊かな起伏に富んだ美しい地方で、5月になるとポピーの花が一面に咲き乱れる光景を見る事ができます。フランチェスコを育
んだのはこのウンブリアの自然であり、森の中で陽の光を浴び、花や蝶と戯れているうちに彼の心の中に変化が起こりました。
『教会を修復せよ』という神の声を聞き、廃墟と化していたサン・ダミアーノ教会を修復し始めたのです。
そして、家も地位も捨て、神に仕える道を選び、清貧を是とする彼の元には多くの賛同者が集まりました。
 当時の教会は政治と結びつく事によって莫大な財産を持ち、多くの聖職者や修道者の中にはキリスト教本来の教えからはなはだしく逸脱した贅沢な生活を送っていた者が少なくなく、それに
伴う精神的荒廃など多くの弊害によって、人々は早急に教会の刷新と改革を必要としていたのです。
 時の教皇はイノセント三世。彼は政治的に優れた才能を持ち、当時絶大な権力を治めていましたが、一方で精神的なものに価値を求める優れた宗教家であり、教会の刷新の必要性を感じ、
キリストの教えのもと貧しく真剣に生きようとする人々に理解を示す柔軟な心を持っていました。フランチェスコがこのような教皇の時代にローマを訪れたのは幸運だったと言えるでしょう。

 アッシジを訪れる巡礼者が真っ先に聖堂フランチェスコの死後二年後に着工されたもので、フランチェスコの心と肉体を納める神聖な教会であり、巡礼者が第一に訪れる名所です。
 フランチェスコの死後半年後にアッシジのシモン・プッチアレロという人が、当時死刑場であった土地をフランチェスコ兄弟会に寄付した所を聖堂の建立場所として定めた。この壮大な大聖堂
とそれに付属する大修道院の建造を計画したのは、フランシスコ会の第二総会長となったフラテ・エリアである。芸術的、建築学的な見地からも注目に値する建物であり、多くの画家がフランチ

ェスコの絵を提供している。フレスコ画は教会の装飾の意味もあるが、最大の理由は字の読めない人々の為に聖書の教えを伝える役目を果たしていた。事実、壁画の大部分はテーマを聖書から取っており、いわゆる「目で読む聖書」と呼ばれている。13世紀のイタリアはその大半が貧しい農民で占められ、子供たちも貴重な労働力として畑に出ていました。当然ながら学校に行く費

用も時間的余裕もなく、字が読めない人が少なくなかったのです。
 私の最大の目的は上部大聖堂の壁面に描かれたジョットによるフランチェスコの壁画である。この中の一枚にあのあまりにも有名な「小鳥に説教するフランチェスコ」の画があるのである。高校
の美術の教科書にも載っていたのでこの絵には馴染みがありました。
 ある時、フランチェスコは仲間と説教の旅に出ていて沢山の鳥が木々に止まっているのを見かけ、思わず説教を始めたという牧歌的な逸話です。
 小鳥達は最初首をかしげるしぐさをしながら不思議そうにフランチェスコを見ていたが、説教が終わるとうれしそうに羽を羽ばたせたといいます。
 階段を下りると下部大聖堂に出ますが、ここにはフランチェスコの墓があり、実際その肉体と魂が眠っています。
 この教会は立派過ぎて花のようにひそやかに行きたいと願ったフランチェスコとかけ離れているような気がしてならないのですが、もちろんフランチェスコ自身が自分を祭るためにこのような聖
堂を建てる事を望んだわけではなく、彼の死後、信者達によって建てられました。例え、フランチェスコの信条にそぐわないとしてもフランチェスコ協会の総本山があまり粗末では格好がつかないと思ったのだろうし、現在の夥しい巡礼者数の事を思うとその選択は正しかったのかもしれません。



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アッシジの中心、コムーネ広場


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アッシジの街角


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フランチェスコ大聖堂




登録:1998年

登録範囲:ブリュッセル旧市街の中心広場グラン・プラス。110m×70mの広場と周囲の歴史的建造物郡


19世紀に文豪ヴィクトル・ユゴーが「世界で最も美しい広場」と称された壮麗な大広場グラン・プラスはベルギーの首都ブリュッセ中心部に位置しています。ヨーロッパの都市には必ずこのような広場がありますが、四方を15~17世紀各時代に建てられた建造物が見事に融合している事と、広場が街の繁栄の原点となる商取引の場所であったことが、ヨーロッパ北部商業都市を代表する例として評価されました。見事なゴシック建築の市庁舎を中心に構成された広場の周りの建物は、その7割がギルドハウスです。どれも華麗な装飾で飾られており、ブリュッセルがギルドを中心に繁栄した町であることが分かります。
ロートリンゲン公シャルル・ド・フランスがこの地に城塞を建てたのが街の起源とされ、11~12世紀にはグラン・プラスの原型が造られ、13~14世紀にはその周囲に肉屋やパン屋、仕立て屋などのギルド・ハウスが造られました。ギルドとは互いの発展を目的に成立した同業組合のようなもので、中世都市の政治的、政治的実権を握りました。ギルドハウスはその集会所で公邸や私邸として使われることもありました。18世紀の再建時にはバロック様式を競って取り入れたため、統一された空間となっています。
また、ベルギーに限らず、フランドル地方ではレース編みが盛んで、つづれ織りのタペストリーや絨毯は伝統産業となっています。糸で模様を編んでいくタペストリーは大作にもなると完成までに3年を要するものもあります。


『世界遺産シリーズ・ブリュッセルのグラン・プラス』

www.nhk.co.jp/sekaiisan/card/cards374.html