しんでいるかもしれない。
僕が一番興味を持っているのは生と、死。
今日少しその構造が理解できたのかもしれない。
僕たちは生まれつき、繕われた善と悪との世界に立たされる。
善と悪との境界に立っている。
何かは善で何かが悪だという、世界
それをつかさどるのが、これまた虚構の「法」
悪人は罰せられる。
誰かは悪に、誰かは善、
善は悪を罰する
この構造は普遍的に見える。
この構造は、しかしながらいくらでも交換される場合がある。
善だと自負するものは何かの拍子に一気に悪へと仕立て上げられる。
悪と善が交差する。それが今の社会なのだと。
誰でも悪人になりえる。冤罪もあり得る。
法があるからこそ、私たちは悪を、罪を認識した。
法がなければ、私たちは純粋無垢のままだった。
罪は悪なのだろうか?
私たちは平気で動物を殺す。
そんなのおかしいと思う人々は、ハムサンドを食べながら語らうのだろうか?
誰かが、何かを殺す。
殺すことで生が誕生するのか?
それならば、これは悪ではなく、善なのだろうか。
そもそも私たちのどこに善があり、どこに悪があるのであろうか。
誰が誰かを殺す権利を持っているのだろうか。
罰せられないように、追放されないようにおびえながら暮らすわれわれは、
本 当に救われるのだろうか。