<概略>
- アイディアが軽やかに離陸し、思考がのびのびと大空を駆けるには?
- 自らの体験に即し、独自の思考のエッセンスを明快に開陳する、恰好の入門書。
- 考えることの楽しさを満喫させてくれる一冊。
<備忘録>
- 知識:人間という木の咲かせた花であり、花だけ切って花瓶にさしておいても、すぐ散ってしまう。
- ギリシャ人が人類史上もっとも輝かしい文化の基礎を築き得たのも、“なぜ”を問うことが出来たから。
- “朝飯前”とは、朝食の前だからこそ、本来は決して簡単ではないことでもさっとできてしまうのでは。朝の頭はそれだけ能率がいい。
- 別々のもの同士で化学反応を起こさせるには、きっかけになるものが必要。それは、異質なものでなければならない。
- 思考の整理法としては、寝させるほど大切なことはない。“見つめるナベは煮えない”。
- 「ひとつだけでは、多すぎる。ひとつでは、すべてを奪ってしまう」。様々なタネがあると頭の働きがのびのびし、変なこだわりを持たなくてもよい。
- 全体は部分の総和ではない。うまく組み合わせられれば、部分の総和以上の効果が出る。逆もしかり。
- 集めた知識も、ただ持っているだけでは「ただのもの知り」でしかない。“知のエディターシップ”、持っている知識をいかに組み合わせ、どういう順序に並べるかが緊要事。
- 様々な知識や経験、感情がすでに存在しているところに、ひとりの人間が入って行くことで、知識と知識などが結合して、新しい知識を生み出す。個性が立ち会わなければ決して化合しないようなものを、化合させるとことで“個性的”でありうる。
- 中心的関心よりも、周辺的関心の方が活発に働く。視野の中央にあるものは見えているはずなのに、見えていないことが少なくない。
- 思考の整理とは、低次の思考(第一次的)を、抽象のハシゴを登ってメタ化していくこと(第二次的、第三次的)。整理、抽象化を高めることによって、高度の思考となり、普遍性も大きくなる。
- 思考や知識の整理とは、古新聞を処分してしまうような量的処理ではなく、より高い抽象性へ高める質的変化。思考の整理には、平面的で量的なまとめではなく、立体的、質的な総合を考える。
- 文章は黙って書くが、読み返しは音読する。読みつかえるところがあれば、かならず問題が潜んでいる。
- 無我夢中、散歩中、入浴中(いずれも「最中」)がいい考えの浮かぶいい状態であると考えられる。
- 知的活動には三つの種類があり、①既知のことを再認する。②未知のことを理解する。③まったく新しい世界に挑戦する。量的読書の必要性はいわれるが、質的に見れば①、②、③はまったく別物。
- 拡散作用によって生まれたものは発散的(飛行機型の思考)。対照的なのが、収斂性による“整理”。整理には焦点が必要。学校教育は、主に収斂性による知識の訓練であり、いつも正解が予想される。
- 人間の頭はいい加減に忘れているのではなく、自分にとって「意味のあるもの」を「意味のないもの」を区別し、意味のないものを忘れていく。ここに個性があらわれる。
- 知識を持っているだけで、ものを考える手間や面倒さを省いてくれるから、知識が増えれば増えるほど、ものを考えないという悪循環が生じ“知識の量”と“思考の力”が反比例していく。
- 決して知識が要らないのではなく、知識をうまく生かしながら、それを自分にしかできない個性的で独創的な思考と融合させていくこと。
<考察>
-
化合させることや低次の思考の抽象性を高めていくことは、私が所属する部門(渉外部門)でまさに必要なスキルである。情報過多の時代、メディアや足で稼いだ情報(第一次的情報)を組み合わせ、抽象化し、“自社にとっての意味合いはなにか?”を経営層にインプットすることが重要となる(Management Implication)。また、利害が異なる多部門の懸け橋となり、全社最適・全体最適な方向へと旗振り役となって進めていくことが求められている。「全体は部分の総和ではない」ことも行動指針となる。関連する多部門とのプロジェクトを推進する際、進め方1つで総和以上にもなれば、総和以下にもなってしまうことに気を付けなければならない。常に、全体最適を考えながら、どうすれば総和以上に効果がさせるかを意識したい。
-
どこかで見聞きした知識を自分の知識・思考の結果と思い込み、“花”として見せていたかもしれない。その全てが悪いというわけではないが、“自分の根・幹から咲いた花ではない”ことを覚えておかなければいけないと感じた。普段、“考える”ことがあまり得意ではないため、いろいろなことにアンテナを張り、気になったことはちょっとメモしておく。そして、意識的に“異質”なものに触れるようにしつつ、十分に寝かせることを実践してみたい。
-
知的活動について、これまで“質的”な区別は意識したことがなかったため、①既知の再認、②未知のことを理解、③まったく新しい世界への挑戦、を認識し、②や③を積極的に実践する。一方で、知識(≒記憶)に頼ることで、ものを考える手間が省かれ、無意識にものを考えない(考える程度が減って行っている)習慣になっていたかもしれない。知識は知識で上手く生かしながら、自分にしか出来ない個性的で独創的な思考と融合させていき、飛行機型の思考を体得していきたい。
=========[引用開始](p8-9)=========
グライダーと飛行機は遠くからみると、似ている。空を飛ぶのも同じで、グライダーが音もなく優雅に滑空しているさまは、飛行機よりもむしろ美しいくらいだ。ただ、悲しいかな、自力で飛ぶことができない。
学校はグライダー人間の訓練所である。飛行機人間はつくらない。
(中略)
一般に、学校教育を受けた期間が長ければ長いほど、自力飛翔の能力は低下する。グライダーでうまく飛べるのに、危ない飛行機になりたくないのは当り前であろう。
===========[引用終了]===========
=========[引用開始](p11)=========
われわれは、花を見て、枝葉を見ない。かりに枝葉は見ても、幹には目を向けない。まして根のことは考えようともしない。とかく花という結果のみに目をうばわれて、根幹に思い及ばない。
(中略)
知識も人間という木の咲かせた花である。美しいからといって花だけを切ってきて、花瓶にさしておいても、すぐ散ってしまう。花が自分のものになったのでないことはこれひとつ見てもわかる。
===========[引用終了]===========
=========[引用開始](p17)=========
ギリシャ人が人類史上もっとも輝しい文化の基礎を築き得たのも、かれらにすぐれた問題作成の力があり、〝なぜ〟を問うことができたからだといわれる。
===========[引用終了]===========
=========[引用開始](19p)=========
〝朝飯前〟ということばがある。手もとの辞書をひくと、「朝の食事をする前。『そんな事は朝飯前だ』〔=朝食前にも出来るほど、簡単だ〕」(『新明解国語辞典』)とある。いまの用法はこの通りだろうが、もとはすこし違っていたのではないか、と疑い出した。
簡単なことだから、朝飯前なのではなく、朝の食事の前にするために、本来は、決して簡単でもなんでもないことが、さっさとできてしまい、いかにも簡単そうに見える。知らない人間が、それを朝飯前と呼んだというのではあるまいか。どんなことでも、朝飯前にすれば、さっさと片付く。朝の頭はそれだけ能率がいい。
===========[引用終了]===========
=========[引用開始](p25-27)=========
アルコールに変化させるきっかけになるものを加えてやる必要がある。これは素材の麦と同類のものではいけない。異質なところからもってくるのである。
(中略)
頭の中の鋳造所で、時間をかける。あまり騒ぎ立ててはいけない。しばらく忘れるのである。“見つめるナベは煮えない”。
(中略)
醱酵が始まったとなれば、それを見すごすことは、まずないから安心してよい。自然に、頭の中で動き出す。おりにふれて思い出される。それを考えていると胸がわくわくしてきて、心楽しくなる。そうなればすでにアルコールの醱酵作用があらわれているのである。
===========[引用終了]===========
=========[引用開始](p32)=========
思考の整理法としては、寝させるほど大切なことはない。思考を生み出すのにも、寝させるのが必須である。
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=========[引用開始](p34-35)=========
「ひとつだけでは、多すぎる。ひとつでは、すべてを奪ってしまう。」
(中略)
ひとつだけだと、見つめたナベのようになる。これがうまく行かないと、あとがない。こだわりができる。妙に力む。頭の働きものびのびしない。ところが、もし、これがいけなくとも、代わりがあるさ、と思っていると、気が楽だ。テーマ同士を競争させる。いちばん伸びそうなものにする。され、どれがいいか、そんな風に考えると、テーマの方から近づいてくる。「ひとつだけでは、多すぎる」のである。
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=========[引用開始](p40)=========
全体は部分の総和にあらず、ということばを思い出す。
(中略)
上手に編集すれば、部分の総和よりもはるかにおもしろい全体の効果が出るし、各部分もそれぞれ単独の表現だったときに比べて数等見栄えがする。
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=========[引用開始](p41-43)=========
おもしろいと思って注意して集めた知識、考えがいくつかあるとする。これをそのままノートに眠らせておくならば、いくら多くのことを知っていても、その人はただのもの知りでしかない。
“知のエディターシップ”、言いかえると、頭の中のカクテルを作るには、自分自身がどれぐらい独創的であるかはさして問題ではない。もっている知識をいかなる組み合わせで、どういう順序に並べるかが緊要事となるのである。
(中略)
一般的に言えば、ありきたりのもの同士を結び合わせても、新しいものになりにくい。一見、とうていいっしょにできないような異質な考えを結合させると、奇想天外な考えになることがある。
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=========[引用開始](p44)=========
酸素と亜硫酸ガスをいっしょにしただけでは化合はおこらない。そこへプラチナを入れると、化学反応がおこる。ところが、その結果の化合物の中にはプラチナは入っていない。プラチナは完全に中立的に、化合に立ち会い、化合をおこしただけである。
(中略)
その個性が立ち会わなければ決して化合しないようなものを、化合させるところで、“個性的”でありうる。
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=========[引用開始](p46)=========
第二次的創造というのは、触媒的創造のことになる。
===========[引用終了]===========
=========[引用開始](p46)=========
新しいことを考えるのに、すべて自分の頭から絞り出せると思ってはならない。無から有を生ずるような思考などめったにおこるものではない。すでに存在するものを結びつけることによって、新しいものが生まれる。
(中略)
さまざまな知識や経験や感情がすでに存在する。そこへひとりの人間の個性が入って行く。すると、知識と知識、あるいは、感情と感情が結合して、新しい知識、新しい感情を生み出す。
===========[引用終了]===========
=========[引用開始](p59)=========
A、B、Cという互いに関係のあることが、ある間隔をおいて起こったとする。はじめのうちこそ、バラバラの三つの出来ごとと感じられているけれども、やがて、それぞれの間にある時間が消えて、つながってしまい、同じようなことが立てつづけに起こったように思われてくる。Aの残像がBにかぶさり、Bの残曳がCに及んで、三つの点であったものが、線のようになる。
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=========[引用開始](p56)=========
中心的関心よりも、むしろ、周辺的関心の方が活潑に働くのではないかと考えさせるのが、セレンディピティ現象である。視野の中央部にあることは、もっともよく見えるはずである。ところが皮肉にも、見えているはずなのに、見えていないことが少なくない。すでに前にも引き合いに出している“見つめるナベは煮えない”は、それを別の角度からいったものである。
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=========[引用開始](p60-61)=========
思考、知識についても、このメタ化の過程が認められる。もっとも具体的、即物的な思考、知識は第一次的である。その同種を集め、整理し、相互に関連づけると、第二次的な思考、知識が生まれる。これをさらに同種のものの間で昇華させると、第三次的情報ができるようになる。
第一次的な情報の代表にニュースがある。これは事件や事実を伝える点で興味があるけれども、それがどのような意味をもつか、その限りでは、はっきりしない。
(中略)
同じ新聞でも、社説は、そういう多くの第一次的情報のニュースを基礎に、整理を加えたもので、メタ・ニュース、つまり、第二次的情報である。
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=========[引用開始](p62)=========
思考の整理というのは、低次の思考を、抽象のハシゴを登って、メタ化して行くことにほかならない。第一次的思考を、その次元にとどめておいたのでは、いつまでたっても、たんなる思い付きでしかないことになる。
整理、抽象化を高めることによって、高度の思考となる。普遍性も大きくなる。
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=========[引用開始](p63-64)=========
思考や知識の整理というと、重要なものを残し、そうでないものを、廃棄する量的処理のことを想像しがちである。
(中略)
それは、古い新聞、古い雑誌を、置場に困るようになったからというので、一部の入用なもの以外は処分してしまうのに似ている。物理的である。
本当の整理はそういうものではない。第一次的思考をより高い抽象性へ高める質的変化である。いくらたくさんの知識や思考、着想をもっていても、それだけでは、第二次的思考へ昇華するということはない。量は質の肩代わりをすることは困難である。
(中略)
思考の整理には、平面的で量的なまとめではなく、立体的、質的な総合を考えなくてはならない。
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=========[引用開始](p95-96)=========
人間の頭はこれからも、一部は倉庫の役をはたし続けなくてはならないだろうが、それだけではいけない。新しいことを考え出す工場でなくてはならない。
(中略)
倉庫にだって整理は欠かせないが、それはあるものを順序よく並べる整理である。それに対して、工場内の整理は、作業のじゃまになるものをとり除く整理である。
この工場の整理に当たることをするのが、忘却である。
(中略)
そのことが、今の人間にはよくわかっていない。それで工場の中を倉庫のようにして喜んでいる人があらわれる。工場としても、倉庫としてもうまく機能しない頭を育ててしまいかねない。
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=========[引用開始](p119-120)=========
長く説明しなければならないほど、考えが未整理なのである。
(中略)
表現をぎりぎりに純化してくると、名詞に至る。まず、副詞が削られる。
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=========[引用開始](p124)=========
アメリカで出た論文作成の指導書に、
「テーマはシングル・センテンス(一文)で表現させるものでなくてはならない」
という注意があった。
(中略)
思考の整理の究極は、表題ということになる。
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=========[引用開始](p131)=========
原稿は黙って書くが、読み返しは、音読する。すくなくとも、声を出すつもりで読む
(中略)
もし、読みつかえるところがあれば、かならず問題がひそんでいる。再考してみなくてはならない。
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=========[引用開始](p133)=========
話してしまうと、頭の内圧がさがる。
(中略)
すると、それをさらに考え続けようという意欲を失ってしまう。あるいは、文章に書いてまとめようという気力がなくなってしまう。しゃべるというのが、すでにりっぱに表現活動である。それで満足してしまうのである。あえて黙って、表現へ向っての内圧を高めなくてはならない。
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=========[引用開始](p134)=========
俗世を離れた知的会話とは、まず、身近な人の名、固有名詞を引っぱり出さないことである。
(中略)
つぎに、過去形の動詞でものを言わないことである。
(中略)
それから、同業、同じ方面のことを専攻にしている人間同士が話し合うと、どうしても話題は悪く専門的になる。
(中略)
気心が知れていて、しかも、なるべく縁のうすいことをしている人が集まって、現実離れした話をすると、触媒作用による発見が期待できる。セレンディピティの着想も可能になる。
===========[引用終了]===========
=========[引用開始](p144)=========
どの学問でも、境界領域はノー・マンズ・ランド(無人地帯、未開発の領域)ときまっている。
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=========[引用開始](p146)=========
三上とは、これまた前のくりかえしになるが、馬上、枕上、厠上である。
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=========[引用開始](p149)=========
三多とは、看多(多くの本を読むこと)、做多(多く文を作ること)、商量多(多く工夫し、推敲すること)で、文章上達の秘訣三カ条である。
===========[引用終了]===========
=========[引用開始](p150)=========
以上の三つ、無我夢中、散歩中、入浴中がいい考えの浮かぶいい状態であると考えられる。いずれも、「最中」である。
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=========[引用開始](p162)=========
われわれがじかに接している外界、物理的世界が現実であるが、知的活動によって、頭の中にもうひとつの現実世界をつくり上げている。はじめの物理的現実を第一次的現実と呼ぶならば、後者の頭の中の現実は第二次的現実を言ってよいであろう。
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=========[引用開始](p164)=========
もっと第一次的現実にもとづく思考、知的活動に注目する必要がある。割り切って言うならば、サラリーマンの思考は、第一次的現実に根をおろしていることが多い。それに比べて、学生の考えることは、本に根がある。第二次的現実を土壌として咲く花である。
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=========[引用開始](p165-166)=========
社会人も、ものを考えようとすると、たちまち、行動の世界から逃避して本の中へもぐり込む。
(中略)
行動と知的世界とをなじませることができなければ、大人の思考にはなりにくいであろう。
(中略)
仕事をしながら、普通の行動をしながら考えたことを、整理して、新しい世界をつくる。これが飛行機型人間である。
(中略)
汗のにおいのする思考がどんどん生まれてこなくてはいけない。それをたんなる着想、思いつきに終わらせないために、システム化を考える。
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=========[引用開始](p167-169)=========
知的活動には三つの種類が考えられる。
①既知のことを再認する。以下、これをAとする。②未知のことを理解する。これをBとする。③まったく新しい世界に挑戦する。これをCとする。
(中略)
Aの読みは、知る、という活動であるが、Bはただ、はじめから知るというわけにはいかない。まず“解釈”が必要である。ことばを手がかりに、未知への世界へわけ入って行く。それで何とかわかれば、未知を既知とすることができるのである。
さらに、そういう解釈を拒むような理解の難しい表現もある。これがCの読みになる。どうしてわかるのか。体当たりである。一度や二度ではわかるわけがない。何度でもぶつかって行く。
(中略)
読書の必要性を訴える声はしばしば耳にするけれども、多くそれは量的読書である。質的に見れば、ただ知るだけのAの読み、既知の延長線上の未知を解釈するBの読み、さらにまったく未知に挑むCの読みという三つは、はっきり別ものである。
===========[引用終了]===========
=========[引用開始](p174)=========
拡散作用によって生まれたものは、散発的である。線のようにはまとまらないで、点のように散っている。点と点とは一見、相互に関係がないように思われる。本書ではすでに用いた比喩を採用するならば、飛行機型の思考である。
これと対照的なのが、収斂性による“整理”である。まず、整理には、焦点が必要である。目標に向って、すべてのものを統合する。その方向がはっきりしていないと、まとめをすることができない。
これまでの学校教育は、主として収斂性による知識の訓練を行ってきた。これには、いつも正解が予想される。満点の答案がありうる。長い間学校教育を受けていると、すべてのことに、正解があるのだというような錯覚におちいるのは、収斂能力だけを磨かれているからである。
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=========[引用開始](p186-187)=========
ものを考えるには、I thinkという考え方とIt seems to meという考え方の二つがあることになる。
(中略)
It seems to meは、なお「くらげなす、ただよえる」状態にあると言ってよかろう。
「くらげなす、ただよえる」ものがはっきりした形をとるようになるには、時間の経過が必要である。
(中略)
こういう時間の整理作用に委ねておかないで、想念を思考化していく作業が「考える」ことである。「と思われる」という思考はいわば幾重にも衣服につつまれている。外側はやさしいが本体がどういうものであるかは、「と思われる」としている当人にとってもはっきりしていない。
その着物を一枚一枚脱がせていくのが、I think本来の思考である。
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=========[引用開始](p191)=========
もっとも、文化において“知識”は重要な枠割をもつ。知識がなければ何もできない。ただ、この場合の知識は自分で作ったものではない。誰かほかの人がこしらえたものを伝え聞いて、身につけたものに過ぎない。その多くは“記憶”で対処できてしまう。
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=========[引用開始](p193-194)=========
たしかにコンピューターは、記憶と再生に関しては人間をはるかに凌駕している。しかし、「ゼロから考える」「先を正確に読む」「人の気持ちを察する」など、想像力を巡らせてなにかを発想することは、現時点では人間ほど正確にはできないことが多い。そして、何より重要なのは、記憶した情報を“忘れる”ことができないことである。
これに対して、人間の“忘れる”能力はとても高級にできている。自分にとって無意識の価値観に合わせて有用なものは忘れず、無用なものを忘れる。すなわち“選択的に忘却する”という力をもっているのである。
(中略)
人間の頭は、決していい加減に忘れているのではない。自分にとって「意味のあるもの」を「意味のないもの」を区別し、意味のないものを忘れていく。ここに個性があらわれる。これはコンピューターには、できない機能である。
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=========[引用開始](p195)=========
知識はそれを持っているだけで、ものを考える手間や面倒さを省いてくれるから、知識が増えれば増えるほど、ものを考えないという悪循環が生じ“知識の量”と“思考の力”が反比例していく。
(中略)
逆に、物を知らない人は知識で処理することができない。いちいち自分の頭で考えて問題を解決するほかない。知識が少ないことで、かえって考える力が発揮される。だから、物を知らない人のほうが、新しいことを考えるのに優れているのである。
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=========[引用開始](p200)=========
知識はものを考えるときの“敵”である。本当に頭を働かすための近道は、忘却を“味方”につけることである。敵味方を見誤ってはならない。忘却を忌み嫌うことは、せっかくの味方をいじめているようなものなのである。
嘆かわしいことだが、記憶で知識の量を増やすことはできても、自らの頭で生み出す思考の量を増やすことにはならない。しかし、ものを考えることは、生まれたときから続けてきたことであり、本来は知識がなくても可能なことである。そもそも人間は知識ゼロで生まれてくるのだから、あらゆることを自分の感覚と思考によって、理解、解釈しなければならない。
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=========[引用開始](p201)=========
私は“思考”という自らで考えることをたいへんに大事に思うが、決して知識が要らないといっているのではない。知識をうまく生かしながら、それを自分にしかできない、個性的で独創的な思考と融合させていくことである。
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=========[引用開始](p203)=========
若い人たちには、自分の知性と理性を喧嘩させるのではなく、両者をうまく結びつけ、これまでの知性だけ、理性だけの発想では生み出せなかった“新しい文化”をつくってもらいたい。
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【参照情報】
思考の整理学 (ちくま文庫) Kindle版. 外山滋比古.1986年4月24日