和泉式部 | 文武一道

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主に『映画』『音楽』『芸能』『文化』『経済』『歴史』等、つまり雑学?(あと、『カンフー映画』にはかなりDEEPにハマッてます!)




 大河ドラマ『光る君へ』で、泉里香さんが演じる「あかね」こと和泉式部❗


 和泉式部の和歌は、『後拾遺和歌集』恋三に採られ、百人一首にも選ばれています?


 ⤵


 あらざらむ この世のほかの思ひ出に いまひとたびの あふことも

 (まもなくこの世ともお別れなので、あの世での思い出になるように、もう一度、逢いたい)

 ⤴

 …などの和歌で知られ、『和泉式部日記』や『和泉式部集』などが残っていて、恋多き歌人としても有名です‼


 
和泉式部の生年には諸説あり、確かなことはわかりませんが、天元元年(978年)説が有力⁉



 父・大江雅致は、秋山竜次さんが演じる藤原実資の日記『小右記』長保元年(999年)9月22日に、太皇太后宮大進であったことが記されています❗

 太皇太后とは、昌子内親王(朱雀天皇の皇女、冷泉天皇の皇宮)のこと?

 のちに大江雅致は木工頭と越前守を歴任した受領層の中級貴族‼

 
和泉式部の母は、越中守平保衡平の娘で、太皇太后宮昌子の乳母⁉



 和泉式部も父母の関係から、少女の頃から昌子内親王に仕えたと推定されています?

 やがて、
和泉式部は最初の夫である橘道貞と結婚❗

 
和泉式部は結婚後の呼称で、橘道貞が長保年間(999~1004年)に、和泉守だったからみたいです⁉

 
和泉式部と橘道貞がいつ結婚したかは定かではありませんが、長徳元年(995年)か、長徳2年(996年)頃‼



 橘道貞は、藤原道長にも重用された能吏であったそうで、藤原道長の日記『御堂関白記』に、その名が?

 
和泉式部と橘道貞との間には、長徳3年(997年)頃、女子が誕生しています❗


 歌人として知られる小式部内侍です‼

 橘道貞の和泉守在任中、
和泉式部は夫の任地に下向したこともあったようで、はじめは夫婦仲もよかったと推定されています⁉



 やがて、橘道貞と和泉式部は不仲となり…、和泉式部と為尊親王との恋がはじまります?


 為尊親王は、冷泉天皇の第三皇子❗

 貞元2年(977年)に生まれました‼


 和泉式部とはほぼ同年齢⁉



 為尊親王の母は、藤原兼家の娘・藤原超子?

 為尊親王は、藤原道長の甥❗

 幼時に母を亡くし、藤原兼家の庇護のもとで成長‼

 しかし、為尊親王と
和泉式部の身分違いの恋はスキャンダルとなり、和泉式部は父・大江雅致から勘当されたそうです⁉



 為尊親王と和泉式部の恋は、長保4年(1002年)6月、為尊親王が26歳でこの世を去ったことにより、幕を下ろします❗


 でっ♪、翌長保5年(1003年)4月、和泉式部は新たな男性に出会います?

 その男性は、為尊親王の同母弟・敦道親王‼

 敦道親王は冷泉天皇の第四皇子⁉


 天元4年(981年)生まれで、和泉式部より3歳年下❗

 敦道親王は為尊親王と同じく、藤原道長の甥にあたります?

 敦道親王は大宰帥となったため、帥宮とも称されました‼

 容姿と文才に恵まれた貴公子だったようです⁉


 敦道親王と和泉式部との恋の十ヶ月を優れた歌を交えて物語風に綴ったのが、『和泉式部日記』❗

 またもや身分違いの恋がはじまり、長保5年12月18日には、敦道親王は
和泉式部を自邸に住まわせ、寵愛したそうです?

 そして、翌寛弘元年(1004年)正月、敦道親王の北の方(正妻)が、無言で邸を去っていくところで、『
和泉式部日記』は幕を閉じます‼

 和泉式部と敦道親王の熱愛は続き…寛弘2年(1005年)頃には、一子「石蔵の宮(永覚)」が誕生⁉


 寛弘4年(1007年)10月2日、敦道親王が27歳で薨じたことによって、和泉式部の恋も終わりを告げます❗

 この頃、
和泉式部は30歳?

 敦道親王を失い、
和泉式部は出家も考えたようですが、寛弘5年(1008年)頃に『和泉式部日記』を執筆し、寛弘6年(1009年)頃に、時の権力者・藤原道長に召し出され、藤原道長の娘・見上愛さんが演じる中宮彰子のもとに出仕します‼

 橘道貞との間に生まれた娘・小式部内侍も、共に出仕したとのこと⁉


 中宮彰子のサロンには、紫式部、凰稀かなめさんが演じる赤染衛門ら、才媛がすでに仕えていました❗

 
和泉式部も歌人としての才を買われて、迎えられたとみられています?

 中宮彰子は和泉式部母娘を温かく迎え、和泉式部も和歌を詠み、宮仕えを楽しんだようです⁉

 やがて、
和泉式部は、藤原道長の家司である藤原保昌と再婚‼


 藤原保昌の弟は、SNSなどで、毎熊克哉さんが演じた散楽一座で義賊の「直秀」のモデルの一人ではないかと噂された藤原保輔❗

 和泉式部の晩年は、よくわかっていません?

 『栄花物語』巻第二十九「たまのかざり」に、万寿4年(1027年)、藤原道長の娘の皇太后・妍子の法事において、大和守として任地にあった夫・藤原保昌の代わりに、
和泉式部は玉を献上し、和歌を詠んだ記事がありますが、以後の消息は不明‼

 
和泉式部の没年も明らかではありません⁉


 藤原保昌が長元9年(1036年)9月に79歳で死去していますが、その死を悼む歌がないことから、和泉式部は藤原保昌より早くこの世を去ったと推定されます…。